清濁

台風が過ぎて3日が経った。

竜がうねるような姿に似た台風19号は、東日本を舐めるように通過して各地をのたくり回った。

ニュースでは各所で水位が上がり、危険水位に達したと報じられて、僕の携帯にも定期的に緊急速報が鳴った。

長野埼玉と堤防が決壊し、付近の集落が水没した。

台風の最中僕は家に閉じ籠り、時折窓を開いてら外の様子を伺いながら携帯で雨雲レーダーを確認していた。

近くに川ががあるとはいえ、少し坂を登ったアパートに住む僕は、家の中にいれば特に問題なく過ぎ去ったと思う。
それでも僕は物干し竿を下ろして、風呂に水を張り、食料を若干買い貯めた。
金曜の夜には「土曜は1日本を読む」と決めて、昼過ぎまでスマホにかじりついていた。

「堤防が決壊するかもしれない」人の連絡を受けては励まして、決壊したと聞けばそこの地方に住んでいる人に連絡を入れる。

台風が過ぎてみれば思ったより自分は気を張っていたのにため息で気づき、日曜の昼は少し寝て過ごした。

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先日こんな発言を見つけた。

「綺麗事では生きていけない」的な言葉をたまに聞きます。確かに生きてれば汚れたこともせざる得ない局面が来ます。が、僕は「汚いことだけの人」の未熟さは「綺麗事だけの人」と同等かと思います。清濁のバランスが大事ですが、これは気を抜くと崩れるので難しい。だからこそ、目指すべきと思います。

確かに生きていく以上綺麗事ではすまないことの方が多いし、綺麗事に対してネガティブな感情を持ってた時期もある。
僕自身も身の保身のために多くの嘘を吐いてきたし、汚いことをしたくないがために色々逃げ回ったこともある。

「らしさ」を体現できればカッコはつくし、周りからの評価もあがる。
口で言うのは容易く、実行するのは難しい。いつも一歩引いた目線で、と書くと冷静そうに見えるが、蓋を開いてみたらただの臆病さしか残っていない。

汚いものの中にひとつまみの美しさを見たいし、綺麗なものは醜いものを包んでいるように思えてしまう。

もちろん、いられるのならずっと綺麗事に包まれていたいと思う。光り輝くものに囲まれ続けていたいと思い、施しを待っていれば周りがどうとしてくれる方が楽である。
けれど自らが生み出し、施す側にならない限り、いづれ失われて、みすぼらしく過去を追い、他人を責め立てるようになるのではないか。
真綿で首を絞められているような感覚にたまに襲われる。

常々距離感とバランスを意識してきた。無闇に傷付きたくはないし、べったりするのも嫌だった。

20代前半はそれでも人を信じようと性善説をもって人と接した。
後半はもはや根性だったが、いいように使われたように思うし、損もした。振り返ってみてそれでも人を信じて良かったかと思うと全てがそうではない記憶の方が強く残っている。今では少し白々しさをもって対応することが多くなり、当時より意地を張る元気はなくなった。

心が波たたないように、事象の対をみてはどこか穿った考えだなと思う。

自身の生まれやそれまでの育ちがなんにせよ、これから身につける清らかさと、歪にそびえ立つ我執の念。

清濁を身につけることができたのなら、もうすこし人間らしく生きられるかもしれない。いつか破滅しそうな内面を辛うじて保たせ、保たせるのに精一杯である。いつか終わりが来るのだろうか、

清濁を併せ持つ、しばらく自分自身の中のテーマになりそうである。

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