日々ふじ20191010
上の人からそこそこ叱られたりして。
それでなんとなくもう嫌になって上司と二人でコソコソと裏っこの棚で作業していた日
明日休みだったのだけれど忙しいから「悪いけど!」なんてふらっと三連休が無くなったりして。
今日も帰り日記を書きながら帰ろうと思って、仕事の片付け作業をしながらあんなこと書こうとかこんな構成にしようとか色々考えていたのだけれど、今の時間になって書き出そうとするとふわっと霞を掴むみたいにフレーズが出てこなくて。
無理に書き出そうと思ってもそれはそれでまた違う何かになりそうなので無理に思い起こそうとも思わず、なんとなく仕事で上の人に言われたことを反芻しながらバス停で佇んでスマホを見ている。
たった数時間で色褪せてしまうような、これだけ言えばどれだけポップな思考だと思われるが思っていたことはそこそこ自分を構成してきた過去の出来事とそれで生まれた思考だったりして。
けどそんなことを考えてるうちに少しずつ思い出してきたりしたりして。取り止めもないななんて思ったりして。
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悲しみに微睡んでいるうちは実はとても楽勝だと思ってて。
何もしない状態を肯定してくれるようであまり浸りたくはない。個人的にはとても足踏みの感情だと思っていて、停滞はするもののそこから生まれるものは綺麗に見える陰鬱としたもので、ひどくなると同情してくれる優しさの化身みたいな人から感情を毟り取って自分への慰めにする。
何が言いたいかというと最終的には希望を謳っていたいというのが個人的な目標の一つであるが、希望を謳うのは文面ではとても印象がいいように見えて周りからの実評価としてはあまり反応はないように思える。
悲劇は長い目で見れば喜劇である。
チャップリンはこう言ったし
ユーモアは悲しみの中から生まれる
とマーク・トウェインは言った。
いつの時代も悲しいことだらけで、側から見る悲しみは一つのコンテンツで消費される。
きっとどの人も一つや二つの悲しみぐらいもっているのだろうが、それを見せない工夫はみんなしているところなのだろう。
悩めるうちは幸せだ。溺れてる時に悩んだりしない。
とももいかおりは言ったし、
カレーは飲み物だとウガンダ・トラは言った。
僕らはその悲しさの中から抜け出してその先を考えて行動しなければならない。
何をそんなに悲しいことがあろうかというと今のところそんなに悲しいことはなくて、悲しみにくれる人があまりにも多いから悲しみについて考えてみた次第である。
今日も夜になって急に冷え込んできた。
明日から雨で、土曜は台風。
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