企画・プレゼンについての一考察

このところ、「企画」について考える機会が多い。自分自身で企画の構想していることが、その主な理由である。

企画というとなんかじめじめと陰気な印象を持っていた。が、どうもそれは違うみたいだ。あらゆる活動の裏には企画書が存在し、それは、周りの人を説得し動かすそんな「魔法の書」であるようだ。

まずは、企画プレゼンのお作法についてメモ代わりに残しておきたい。その後で、企画についての考察を述べる。


今日読んだ京井良彦氏著『学校でも会社でも教えてくれない企画・プレゼン超入門!』はその名の通り、素晴らしい入門書であった。

重要なポイントは以下の5つと心得た。

1.現状と目的の間のギャップを埋めるためのアイデア

2.現状分析は相手とのスタートラインの共有のために重要

3.明確なコンセプトを設定して、課題解決のための一貫性のある企画を

4.読み手、読みやすさを考えた企画書

5.プレゼンは相手の顔を見て提案するチャンス

「自分の考えをまとめ、きちんと相手に伝える」手法として企画・プレゼンというルールが存在することを学んだ。



企画とは、創造的で論理的な、人間的営みであり、本質が通ずるものが他にも存在するように感じる。(書きながら答えはでるかな?)

まず、創造について。創造は「何もなく真っ暗な世界」にsomethingを発生させることを意味する。社会的動物としての人間の創造には2種類に分類できる。1、自分(もしくは思考や嗜好を一つとした類似他者)だけで取り組むものと2、他者の存在を意識しながら取り組むもの。1は芸術的営為と呼ばれ、自己目的的であり内発的であることがほとんどである。pure scienceの研究も厳密ではないがこちらに分類されるべきだろう。ただ、注意すべき点がある。私自身も趣味で描画や音楽をするが、社会にからめとられたそれらの営為はもっと複雑で複層的であり、理解に難いということだ。すなわち、資産としての絵画が存在する時点で、自らを「画家」と称する方々による営為は純粋な前者的な創造ではなく、この場合は後者に分類できる。その意味で我々が触れるほとんどの「創造」は後者に分類されるものが多い。ただ、それは単に前者はその過程が他者と共有されず目に触れにくいというだけのことで、もしかしたら誰もが「他の人には見せない何か」を作り続けているかもしれない。

さて長い前置きになったが、なぜこのようなことに触れたかというと、そこに「他者」が存在する、という当たり前の事実に気づく必要があると考えたからである。他者とは「クライアント」であり、「社内の先輩後輩同僚」であり、「プロジェクトを通して影響を受けるであろう人達」である。そういった他者を意識して初めて「企画」が始まる。多くのデザイナーが言うようにデザインやアイデアは「医者の診察的」な営みであるとは言いえて妙で、他者の中に存在する「病理」を的確に見極め、「治療」することこそが企画者の仕事であろう。そこに自発性や自己目的性があるのかは(少なくとも他者にとっては)どうでもいい、テーマなのである。


次に論理性について。古来より、人間が動物と異なる点として、その優れた意思伝達能力が考えられてきた。ギリシャ、中国、インドの文明地域で古代から論理学に関する書物が残されてきたことから鑑みるに、本性的な能力と考えて支障ないだろう。現代でのプログラミングの基礎となるコンピュテーションは3つの要素から成り立っており、我々の生きる情報社会を「ほぼ問題なく」支えている。それは「順次、分岐、反復」の3つである。すなわち、「まえから一つずつ順番に、条件に従ってふるまいを変えながら、何度も繰り返す」ということである。私は個人的にはこれら三つの要素で人間の「理性」に当たる部分を表現することは近い将来可能であろうと考える。プログラミングは演繹はこれまでも得意であったが、それに加えて最近の機械学習とは帰納的な推測を可能にしているように感じる。(感情的にふるまっているときの人間って、「変な順序で、条件なんて無視して、突発的に意味不明な行動」をとりますもんね。)

こちらも長い前置きを置いたうえで、企画に通ずる学びは、ある程度ルールに従って実施可能であることだろうか。保有しているリソースの確認をして、時間金銭的な制約条件を正しく設定すれば、残りはルールに従って行えばいい、とこのようになる。


創造と論理からそれぞれ「企画」についての考察を行ったが、私の書く文章がルールに従わない、個人的な創造活動であることが明らかになった。また、「企画」の守備範囲は広くあらゆる社会的創造活動が企画であるということに気づいた。

企画、実現をするためにはルールが存在する、他者の存在を意識する必要がある、大きな学びであった。

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