教室中の会話が聞こえる

発達障害と言えば、よく聞くのはADHD(注意欠陥多動性障害)でしょうか。ASD(自閉症スペクトラム障害)やLD(学習障害)も、もちろん発達障害です。私は医者でも専門家でもありませんので、症状などについての詳細は話しません。曖昧な知識で話すのは嫌です。ですので、この話の中で語る「人と違う特徴」は、あくまでも私の主観に基づいた感覚です。


私は発達障害か

鼻が利く。耳がいい。それだけならとてもいい能力だと思う。ただそれが人と違うのかどうか、私個人の中だけでは分からない。部屋の照明が痛いとか、地獄耳だと言われるとか、そんな経験もしてきた。

19歳の時に、親に連れられ検査を受けた。嫌々受けた検査の結果、私は発達障害だとは診断されなかった。しかし、完全に発達障害ではないとは言い切れない検査結果となった。いわゆる「グレーゾーン」である。

検査のことは、正直よく覚えていない。親が私にそういう検査を受けさせたのは、親と私のコミュニケーションがしっかりと成立していなかったからであるというのは覚えている。親からすれば、わらにもすがる思いだったのである。

もちろんそれには当時の様々な状況も関係しているため、すべてがその「グレーゾーン」によるもののせいではないことは私も理解している。当時は親に対してすごく嫌悪感を抱いたが(私は障害じゃないのになぜそんな検査を受けさせるんだという感情です)今はその検査を受けて良かったと思っている。自分の特徴がわかり、自分との上手い付き合い方が分かったからだ。それは、私のそれからの人生にとても役立っている。例えば、耳から入る音声情報より、目から入る視覚情報の方が記憶に残りやすいとか。なので手帳を書くようにしたのだが、驚くほど効果があった。予定を忘れにくくなったのが1番の成長ポイントだった。勉強方法も、視覚情報を意識している。講義で1番大変なのは、もちろん口頭講義である。(親との関係は、今は大変良好です)

今回そんな話をするのは、今日受けた社会福祉学の講義で「発達障害と感覚過敏」についての映像を見たからである。それを見て考えたことと、振り返った自分の10年前の姿は、彼らほどでなくても重なる部分があった。その「グレーゾーン」の私が感じている世界の見え方、聞こえ方を、この世界のどこかに記録しておきたいと思ったのがこのノートのきっかけである。



リサイクル工場の悲劇

記憶に残っているのは、小学生のころの話だ。キムチの匂いで体調不良を起こしたことと、社会見学でリサイクル工場へ見学に行ったときのこと。どちらも匂いに関することだ。

小さなころから、鼻が良いという自覚があった。物の匂いを嗅げば、だれの持ち物か分かる。人の匂いを常に嗅いでいるからである。

キムチの匂い事件は、家が二世帯住宅だったときのことだ。もう一棟のキッチン(1階の奥の方)で作っているキムチチャーハンの匂いが、隣の棟の2階にいる私の部屋まで漂ってきて、ドアを開けていた私はその匂いをダイレクトに嗅いでしまい、頭痛を起こして倒れた。

リサイクル工場の話はその数年後のことだ。リサイクル工場というくらいなので、生ゴミのような匂いがする室内への見学もあった。あまりの悪臭にくらくらして吐き気と頭痛を催し、鼻をつまんだが、先生には「失礼だからやめなさい」と言われた。地獄の始まりである。

失礼だというのは分かる。小学生だから、それをしてはいけないことも普通は分からないと思うし、現に当時の私はわからなかった。だから教師がそれを注意するのも当たり前であるとは思っている。自分の特徴のことは当時、私も親も知らなかったので、教師が知っているわけもない。結果、地獄の5分間を終えて私は嘔吐した。その場で吐かなかっただけ偉いと思う。

今の私なら、退出を申し出ることも出来るし、理由だって説明出来る。その上で、先生の判断を聞くことが出来る。知っていることと知らないことではこんなにも出来ることが違う。小学生だったとしても、親が説明出来ていればこんなことにはならなかったかもしれない。中々難しい話ではある。

ちなみに、パッケージ越しでも香りが分かることもある。香りのサンプルがないときにその力を発揮できると少し得をした気分になる。嬉しい。


無音のゲーム

私はゲームが好きだ。親がゲーム好きだったこともあり、物心つく頃にはゲームで遊んでいた。

ゲームとは、その音楽も併せて楽しむものでもあると思う。けれど、小学生が終わる頃まで私は、ゲームの音を一切出さずに、もしくは最小にして遊んでいた。理由は単純。「うるさいから」である。

花火の音が大きくて怖かった。映画の音が大きくて怖かった。園児の頃はよく泣いていた。小学校の平和学習として、体育館で見る映画はいつも耳を塞いでいた。そうしないと、怖くて逃げ出してしまいそうだった。(ちなみに、覚えている限りで2回小学校から脱走している。クラスメイトが探しに来たことは覚えているが、なぜ脱走したのかは全く記憶にない。)

ゲームの音は常に最小に設定した。それでも、静かな場所では絶対に音を出さなかった。最小の音でも、静かな場所では「大音量」だった。そうなれば、ゲームで遊ぶだけで頭が痛くなる。私はそのことを、おそらく無意識に避けていた。

中学に上がっても、音楽はほとんど聴かなかった。音楽を聴く環境といえば、カラオケか車の中だけだった。音には少しだけ慣れていて、カラオケはそこそこ楽しめた。好きな音楽を歌う解放感の方が勝っていた。けれど、家に着くと倒れ込むように寝た。疲労感もかなりのものだったのだと思う。そして何もせずに寝ている私を母は叱った。悪循環の始まりである。

それだけならまだよかった。

教室の入り口で話している会話の内容が、対角線状にいる――距離が一番離れている私にまで聞こえるのが当たり前。陰口や内緒話が全部聞こえてしまうことによる人への不信感。そんなものが私にとってコミュニケーションの大きな壁になった。自分のことだとかそうじゃないとか関係なく、陰口が聞こえるなんて嫌じゃん。黙ってないといけないし。盗み聞きしてた(したつもりはない。大声で話しているのが悪いのだと当時は思っていた)なんて思われるのも嫌だった。だれに話したか覚えていないが、教室で誰がなにを話しているか分かると言えば「気にしすぎじゃない? そんなに他人に興味もったことないよ」と言われた。他人に興味なんてない。むしろ気にせず過ごせるならそうしたい気分だった。勝手に聞こえてくるものを、どうやって聴かずに過ごせっての。「気にしてるつもりはないんだけどなー」と笑って冗談ぽく返すのが精一杯だった。心がつらかった。

高校生になってもそれは続いた。教室中の会話が聞こえる。スマホを持ち込めるようになったから、休憩中はゲームの音も鳴り響いている。走っている車の音もうるさい。隣で話す友達の話し声が聞き取りにくい。音の海で溺れていた。放課後、静かになった教室で音を出してゲームをしている友達に「うるさいから音量下げて」と言ったらけんかになった。その音はスマホで出せる最小の音だった。私は私で、音を出してゲームをしていたのも原因だ。でも、私の近くにある私のスマホの音よりも、少し前にいる友人のスマホの音の方が私にとってはうるさかった。言わなきゃよかったんだけど、言わずにはいられないほどうるさかったのである。これも映画並のうるささに聞こえていた。ごめんね友達。6年ほど前だから時効ってことで。(その友達とは今もとても仲良しです。いろいろめちゃくちゃけんかしたけど)


ここ数年は、映画にも行くしライブにも行っている。同人のイベントにもよく参加する。成長して、音に耐性がついたのだと思う。それでもそれは絶対的なものではない。その時の精神状態も大いに関係している。だってそれらは全部、私が行きたくてテンションが上がった状態で受ける音の環境なのである。最近の話で言うなら、大学のオリエンテーションでのサークル紹介などがキツかった。

音楽サークルが演奏するという説明があった。まあ当たり前の流れである。音楽サークルなのだから。

事前に構えていれば、ある程度は問題ない。マイクのスピーカーが真上にある状況だったが、オリエンテーションで途中退出なんていう目立つ行動はしたくなかった。私は目立ちたくない。

演奏が始まると、予想していたとおり体調が悪くなった。気分が悪くなったのである。音量的には映画とそう変わらないと思うが、オリエンテーションを数時間受けたあとのことだったのと、緊張感とが重なったからだと思っている。それでも、一曲だけという説明があったから乗り切れるだろうと思っていた。

……人生は甘くない。時間が余ったのでということで二曲目が始まろうという流れになっていた。これは耐え切れそうにないということで外に出た。出ると、そこに待機していた教員の方々に話を聞かれたので、自分の状況を説明した。

教員は親身になって私の話を聞いてくれた。医療系の学校ということもあるだろう。最初に提出する書類にも、配慮してほしいことを記入する欄があった。私は、日常生活には支障がなかったので無記入で提出したのだが、今後の配慮もしてもらえることになった。

今は逆に、音楽を聴くようにしている。電車に通学になって、駅のホームや車両内ではたくさんの人が思い思いに会話でコミュニケーションをとっている。電車の走行音は私を飲み込んでしまいそうなほど大きい。いろんな音がひしめきあっている。そんな中では、イヤホンで耳を塞いで好きな音楽だけを聴く方が落ち着くのである。

これは余談だが、楽器が見える状態で演奏を聴くと楽器それぞれの音がバラバラに聞こえることが多い。バラバラに聞こえた音を頭の中でまたひとつの音楽にするので、少し疲れるのである。


部屋の照明が痛い

夏は地獄だ。外に出るだけで眼球の上のあたりが、刺されたように痛くなる。だから目を閉じて外に出た。目を閉じたまま外に出て、手で影を作って、まぶたの下で眼球を光に慣れさせる。そうすることで、いくらか痛みは軽減された(完全にはなくならない)

あまりに眼球が痛くなるので眼科に行った。人より少し色素が薄くて、瞳孔のサイズが平均より少し大きいから光を取り込みやすいのだと言われた。色素が薄い人はたくさん見てきていたから、それだけが原因ではないだろうと思った高校生の私だったが、内科的に重大な病気があるとかではなかったのでそういうことにしておいた。

部屋の照明ですら眩しかった中学生時代。日光なんてもっての他で、カーテンが欠かせなかった。小学生時代は、あまり光に苦労した記憶がない。考えられるのは、帽子を常にかぶって外に出ていたことと、遊ぶならほとんど室内だったことだと思う。でも、ゲームのバックライトは消していたし、冬はリビングのこたつの中でゲームをしていた。こたつの、あのぼんやりとした明るさがちょうどよかったのである。

今はサングラスをしている。偏光レンズで、明るさをかなり抑えたものである。昼間の車の運転は、サングラスがないと危険。夜も夜で、対向車線の車のヘッドライトがまぶしいが、まだなんとかなる。なんとかなるとは言っても、対向車が来たときは左側を見るようにすればいいよなんていうアドバイスは、私には効果がなかった。サングラスをするとヘッドライトのまぶしさはちょうど良くなるのだが、そうすると歩行者が見えなくなるのでしない。運転にはとても気を遣っている。

サングラスをして外に出ることで、痛みを感じることはほとんどなくなった。人と会う時もほとんどサングラスをしているし、親しい友人の前では外さないときもある。まぶしさも体調がかなり関係していて、疲れがたまっているときは普段なんとも思わない照明の明るさが苦痛になるときもある。難儀だ。


まとめ

今回は感覚過敏を題材に、私の体験を書きました。なんども言いますが、私は発達障害ではありません。診断が出ていないからです。私自身も、自分を発達障害だと主観的に思ったことはありません。ですが客観的に見るならば、ASDとADHDの中間なのだと思います。気を抜くと体は揺れるし、冗談は分からないし、空気が読めないことも多い。仕事はある程度時間で区切られているとやりやすかったので、介護や看護助手の仕事は向いてました。臨機応変さが求められる場面ももちろんあるのですが、周囲の人が助けてくれました。親しい友人も、遠慮なく言える人ばかりです。恵まれているなあと、最近常々思っています。

自分の特徴との付き合い方をある程度覚えたので、限界を常に考えながら行動しています。映画やカラオケも、疲れているときは体調を崩すので無理には行かないようにしています。映画や祭りやイベントに行けるのは、十数年の経験とあのときの検査の結果があるからです。

これが障害であるかどうかは、今はどうだっていいと思っています。個人的な考えの域をでませんが、私がこれを障害だと思っていないからです。だからこれを見た私の知り合いとかは、今まで通り接してほしいなと思います。