2019年夏の高校野球山梨県大会まとめ その5 ミラクル市川の思い出

あれは28年前の話だ。
1991年。山梨の小さな町の高校が、突如としてセンバツ切符をゲット。
逆転につぐ逆転、サヨナラ勝ち連発でベスト4まで進出した。
同じ町で育った子どもたちに、隣町のエース樋渡卓哉。
子どもの頃から一緒に野球してきた仲間で、甲子園の主役になった。
「ミラクル市川」は、山梨の高校野球ファンにとって、文句なく最高の思い出になっている。
甲子園で決勝進出したことのない弱小県。
そんな地元の最高成績を、私立高校でも、選手が集まる名門公立ですらない、地域の小さな高校が成し遂げたのだ。
夏の県大会。当時小5のぼくは市川高校の試合を見に行って、エース樋渡が出てくるのを待ったりもした。
夏も、東海大甲府を下して甲子園に出場。
春の片鱗を見せるサヨナラ勝ちもあって、ベスト8に進出した。

3年後の1994年。確か、何人かのレギュラーメンバーは、「ミラクル市川」世代の選手の弟たち。エースは樋渡勇哉。
そう、あの樋渡卓哉の弟だった。
甲子園では1つ勝つにとどまったが、それでも「市川高校」の名前は山梨の高校野球ファンとしても確固たるものとなった。

山梨県の誇り、と山梨の高校野球ファンは言うが、地域の野球少年にとってもそれは憧れだった。
ミラクル市川、の後輩たちは、更に5年後の1999年にも春のセンバツ甲子園出場を果たしている。前年……1998年秋の関東大会優勝を果たして堂々の出場だった。
決勝の相手は……横浜高校!!
そう、1998年の横浜高校と言えば、夏にはエース・松坂大輔を擁して甲子園優勝。世代全勝を成し遂げた最強世代だった。
松坂大輔が高校野球を引退した後の横浜高校は神奈川県大会を制して関東大会出場、決勝まで進出していた。
その横浜高校の連勝を止めたのもまた、「ミラクル市川」だった。
この年もセンバツで2勝。ベスト8に進出した。

さらに2001年にもセンバツで2勝。
10年の間に春夏合計5回、甲子園に出場して初戦敗退なし、最高成績ベスト4。

ミラクル市川、の時代は確かに存在していた。

……しかし、少子化の時代。
過疎化が進み、少子化が進み、選手を集めることすら難しくなっていた。

市川高校は、峡南高校・増穂商業高校との合併が決められてしまったのである。
ミラクルからわずか5年後の1996年にはこの合併計画が公になるが、野球部の活躍もあって、反対の署名活動によって一度はこの計画は流れた。
しかし、2016年、少子化の波には抗いきれず、ついにこの3校の合併が正式決定されてしまう。

そして、市川高校の野球部は、ここでまた小さなミラクルを起こす。
秋の高校野球山梨県大会を勝ち上がり、準優勝。

関東大会で健闘すれば、最後のセンバツ甲子園が……
しかし、中央学院に0-2で敗れ、6回目の甲子園はならなかった。
県大会準優勝とはいえ、決勝は0-9の大敗……と思えば大健闘。
7回に2点を失ったあとも粘り続けたが……ミラクルの再現はならなかった。

最後の夏。2019年。
内野安打で決勝点を挙げて初戦を突破。
2戦目では、前チームから3戦3敗……2年間、エース根上くんにやられつづけてきたBシード都留高校との対戦。
雨も味方につけてこれも撃破。
そしてたどり着いた東海大甲府戦。
ミラクル市川、28年前のセンバツでは東海大甲府との2校選出、東海大甲府もベスト8に進出していた。
28年前のあの夏の決勝の相手でもあり……2003年に渡辺監督がチームを去る、最後の試合で敗れたのもまた東海大甲府。これ以上ない、最後の因縁の相手。
先制されるも追いつき、突き放されても追いすがる。
たくさんのミラクルを見せてくれた市川高校の最後は、最後の1球までミラクルを追いかける素晴らしい試合となった。

時代の流れに消えゆく思い出、市川高校。
その最後の夏もまた、誇り高いものだったことを、山梨の高校野球の歴史の最も輝ける1章の締めくくりとして、永遠に語り継がねばならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?