続・かけ算順序問題について

否定派…文章題から立式された数式から意味を読み取ることは数学的にできない
肯定派…数式から意味を読み取ることは数学的に正しくないが教育的に正しいとも言える
つまりかけ順論争の争点は、
「小学校で正しい数学を身につける必要があるのか」です。
肯定派は正しい数学は後で身に着くので、小学校では身の回りのことが計算できる程度の学力が身に着けば良いと考えています。
否定派はあえて正しくないことを教える意味がわからないので、最初から正しい数学を教えるべきだと考えています。

では肯定派(現行教育)はなぜわざわざ数学的でない教え方を推奨するのか、ここが肝です。

例として、

①カゴにリンゴが1個あります、カゴにもう1個リンゴを入れると全部でいくつになりますか?

これは1+1=2と「することができます。」

②2つのカゴの中にそれぞれリンゴを2個ずつ入れます。リンゴは全部で何個ありますか?

これは2+2=4とすることもできるし、2×2=4とすることもできます。

③3つのカゴの中にそれぞれリンゴを2個ずつ入れます。リンゴは全部で何個ありますか?
これは3+2=5とはできませんが、2×3(※3×2)=6にはできます。

つまりかけ算とは、「同じもの」が「いくつか」あることを表す式だと言えます。
カゴとリンゴは別のものなのでかけ算はできません。
「リンゴが2個入ったカゴ」は同じものなので3倍にすることができます。

※「カゴにリンゴを1個入れること」を1(同じもの)とする場合、1×3×2=6という立式も可能ですが、3×2=6だけだと、カゴが2つあるような立式になります。これは小学校の数学が抽象化をしないで言葉で説明することに由来します。

一方、かけ算には交換法則があるので、「いくつか」の「同じもの」という表記もできます。
つまり、3倍×カゴのリンゴ2個=リンゴ6個の立式です。

これは数学的に正しい解釈ですが、この時点で子供に教えるべきは、
「あるもの」が「何倍」になることがかけ算なんだというルールで、
文章題において、何が「あるもの」で何が「何倍」にあたる部分かを見つけさせることに重点を置いています。(被乗数と乗数)

この指導をするにあたって、「3倍のリンゴ2個」という表現は理解の妨げになります。
これは単純に日本語の文法の問題が大きく、並行して日本語を学習している都合もあり、「何が」「どれだけ」増えているのかの順番で指導しなければなりません。
先に「3倍の」と言われても、「3倍」なんてものは存在しないので、"何が”3倍になっているのか理解できないからです。
「3倍のリンゴ2個」は、リンゴが2個あって、それが3倍に増えていることを表すので、倒置法的な表現です。
(倒置法を学ぶのは小学校5年生で、2年生への説明には適しません)

指導するにあたってわざわざ倒置法で教えることは不自然です。では、回答者である小学2年生が「3倍のリンゴ2個の意味で3×2」という表現を使うことは間違いなのかという点についてですが、
これは数学的に間違っていません。でもテストだとバツです。

なぜなら、この時点でのテストの意味は、
「何が何倍になっていくつになったか」を答えるもので、3×2の立式は、カゴ3個の2倍を表す立式と同じものになってしまうからです。
3倍×2個は正しいけど、カゴ3個×リンゴ2個は間違いで、3×2の式は「間違いと同じ要素を含んでいるから」不正解、というわけです。

では、3×2の式から間違いの要素とそうでない要素を見分けられるかと言うと、当然そんなことはありません。
なのに何故バツになってしまうのか。原因のひとつとして、小学2年生は足し算の集合はかけ算で表せる(同数累加)ということも同時に学びます。
この時点で、小学生は3×2は3+3だと習っています。

例文の事象を正しく捉えるのであれば、
「2個のリンゴの3倍」、または「3倍のリンゴ2個」
ですが、少なくとも3+3の立式は間違いです。
3つのカゴに1個ずつ配るので3個必要、それが2回なので3+3=3×2という考え方をする人もいますが、3つのカゴにリンゴを1個ずつ配るという作業は1+1+1、または1×3です。
立式は、1×3×2、または(1+1+1)×2にするべきです。
なぜなら「リンゴ3個」は問題文のどこにも登場していないので、「3」を作る手順を式で表す必要があるからです。
問題文から立式をするとはそういうことです。

ここで困るのが、2+2+2と3+3は違うものだけど、2×3と3×2は同じものだと教えることについてです。
そこで起きる矛盾とも思えるものが、文章題においてはかけ算に順序があり、計算問題においては順序がないという現象です。
かけ算の「計算」には交換法則があるけど、かけ算の「表現」には順序があるということです。
一見変に感じますが、私はこれは数学的にも日常的にも正しい解釈(落としどころ)だと考えます。

数学というのは「ものの数え方」の真理を探究するものであり、ものを数えるということは事象を抽象化して捉えるため、かけ算の順序について常に交換法則が適用されるのは当然です。

一方、現実の事象には「3倍」は存在せず、あるものが増えていく足し算の集合をかけ算で表しているにすぎません。

例えば
父は100円のリンゴを、母は100円のチョコを、兄は100円の鉛筆を買ったとき、
合計の値段は300円ですが、これは100円のリンゴ+100円のチョコ+100円の鉛筆なので、100+100+100の事象であり、100×3ではありません。当然、3×100で300円という立式もできません。
100円のものが何個あるか数えるのであれば100×3とできますが、「3」という数字の作り方が書かれていませんし、合計金額の出し方として不適当です。
請求書で
買ったもの 価格100 数量3
とはしないのと同じです。
100+100+100は100×3として「計算」できるだけで、現実の事象としては足し算とかけ算は同じものではありません。

小学校教育では、2×3=2+2+2であり、3+3とは"教えません”。(間違っているとも言わない)
これは2×3と3×2の交換法則を否定しているわけではなく、
2+2+2=2×3、3+3=3×2としたとき、2+2+2と3+3は現実としては別の事象なので、同じように2×3と3×2を使い分ける必要があることを示しています。

つまり小学校の"文章問題における”かけ算の式は、「ある自然数の同数累加について表すもの」だと定義されていて、そこではひとつ分×いくつ分の順で表すと定義されているので、2×3は2+2+2にしかなりません。
数学好きな人の言葉で言うなら、
「加法の定義された半群NへNを右から作用したときの、作用を「かけ算」と定義」していることになります。
これはかけ算として「間違っている」のではなく、かけ算を部分的に限定した説明をしているため、「不足している」状態です。

なぜ不足したものを教えるのかというと、この時点(小学校)では「数学と日常は切り離せない(抽象化できない)から」と考えられます。

この時点で抽象化してしまうと、
「結局問題文に書いてある数字を順番にかけたら答えになる」
「計算するときひっくり返すならどっちが先でもいい」
「なんでひとつ分といくつ分を探すのかわからない」
というようなことになり、
数式と日常の結びつきが弱くなり、かけ算の意味や効果が分かりづらくなります。

日常の事象を表す場合、仮に6人乗りの座席を表現するなら、2×3の6人乗りと書けば2人用シートが3列あると推測できるし、3×2人用シート、3列×2人で6人乗りと書いてもわかりますが、3×2の6人乗りと書くと3人用×2列かと思われます。またはバスのように左右で縦に3席ずつも考えられるでしょうか。
これは先ほども述べたように単純に日本語の問題で、
"日本語のかけ算には交換法則はない”からです。
2×3と3×2は同じですが、
2かける3人用のシートと、3かける2人用のシートは別物です。
腹筋20回×2回と腹筋2回×20回だと操作が違います。
突き詰めると、足し算にも順序はあります。
去年は身長150㎝で、今年は1㎝伸びました。身長は150+1なので151㎝です。
1+150㎝とは言いません。
日常的な事象は抽象化されていないので、すべての数字に属性(単位や意味)があり、一般的な数学とは「定義が違う」のです。

また、かけ算は「ひとつ分」×「いくつ分」だと教えることで、被乗数と乗数の理解を促し、割り算の段階になったとき、割合を学ぶことによって"不足していたかけ算”を「拡張」することができます。
ここでつまずく子は被乗数の意味がわからない子で、被乗数と乗数の順番をつけることについて理解できなかった子がこの理解につまずくことはありません。
(学校や教師にムカついてるとかの弊害はあるかも知れませんが、それで数学が嫌いになるなら点数を取るのが好きだっただけで結局理解力はないような気もします)

また、「かけ算には順序がある」と覚えたまま大人になったとして、日常的に起きる弊害は特にありません。
むしろ、被乗数について意識をする習慣があることは良いことですし、先のシートの例などのように、数学とは別に、日本語的なコミュニケーションを円滑にすることもあります。

この教え方だと数学についての正しい理解を阻害するという意見については、「小学校の算数教育でそこまでの理解をさせることは求めていない」に尽きると思います。
1+1=0
という答えをした生徒がいたとして、仮にそれが二元体の多項式を用いて0と答えていたとしても、「算数」で定義されたものと違う定義を使った回答はバツにするしかないです。
算数では1+1=2と覚えれば良くて、1+1=0になる理屈なんかわからなくても支障はないからです。
また、多項式を理解して0と答えているなら1+1=2の理屈も当然理解しているので、そんな子の気持ちに構う余裕は義務教育にはありません。
(もちろん教師の裁量で構ってあげることは大事ですが、義務ではありませんし、知らない教師も悪くありません)
それよりも1+1=1になってしまう子の面倒を見る方が優先です。

繰り返しになりますが、算数教育は嘘を教えている訳ではなく、
「できない子に合わせて、あえて一時的に不足した数学を教えるやり方」を取っていて、それを後の数学教育で拡張していくことで理解を促すやり方を取っています。
拡張が正しくされなかったとしても日常生活に弊害はないし、数学を学んでいけば算数的な考えはいずれ拡張されて正されていきます。
あとになってから「文章題のかけ算も抽象化すれば順番は変えてもいいんだ」と気づくことが拡張です。

数学が好きな人からすれば、小さいころから本質的な数学を学んでほしいと思う気持ちはわかります。
ですが、小学校はまだそこまで到達できない子たちを引き上げることを最優先としています。
体育では独自ルールのサッカーや野球のルールが決められているし、国語では作者の気持ちを考えさせられるし、歴史だって音楽だって専門家からしたら突っ込みたい部分は多々あるんじゃないかなと思います。
数式だけ覚えて数学の試験をこなすことは本質的には正しくないとしても、それは受験のためにも、日常で計算するうえでも有効です。
教育は日常における計算に困らないことがゴールで、多くの人にとっては数学は受験と日常生活のためにだけあるからです。
そうではないという主張は数学好きによる主張であって、中学、または高校数学までをなんとか乗り切ればいい大多数の人にとっては些末なことです。
受験と日常生活より先にある学びは「学問」としてそれぞれが学んでいくべきもので、残念ながら義務教育ではそこまでの指導を全教科、全生徒にすることは難しいです。

「正しい数学を教えるべき」という主張は一個人の意見に過ぎず、学問としては正しい意見ですが、それが教育として正しい意見なのかは別の話です。
だからと言って今の教え方が正しいということではないと思ってますし、改善の余地はいくらでもあると思いますが、
「なぜ小学校でかけ順指導をすることが有効とされているのか」
「仮に小学生には不完全な数学を教えることが有効だとしたら、どこで拡張するべきなのか」
「初めから正しい数学を教えることによる弊害は何が考えられるのか、それについてどう対策するのか」
など、「正しい数学を広めたい人」が、それを些末なことと切り捨てる現代教育に対して、プレゼン、アピールして議論していかなければならないものであって、かけ算に順序がある(それを支持する)と言ってる人を馬鹿にしてる限りそれは達成できないと思っています。

「なぜかけ算の順序指導をしてはいけないのか?」
という疑問に対して、「その方が数学的に正しいから」では答えになっていません。
小学校では「文章問題のかけ算には順序がある」というルール(定義と言った方が分かりやすいかも知れません)があって、そのルールは数学のルール(定義)とは異なります。
ルールを変えるためには、なぜそのルールにしたのか、なぜ変えないのか、変えるとどうなるのか、どう変えるべきなのか、そういったことを多角的に考える必要があります。

そして、それらの議論は全て「数学」ではなく「教育学」の分野です。
かけ算、割り算の意味が分からない子供に対してどうアプローチするべきなのか、
生徒全体のレベル、教師全体のレベルを見たときに、子供の学力を基準値まで押し上げるにはどのような指導が有効なのか、
現場ではどこまでのことができて、どの程度手が回らないのか、
広く物事を考えて、やっと議論ができる問題です。

そういった点で、この問題について本質的な議論ができる人は、
「教育関係者」と「生徒」であり、
それ以外の保護者は部外者は、
「これが正しいと思う」、「これは間違ってると思う」、「こうした方が良いと思う」という意見や感想を述べることしかできないので、どれだけ数学が得意でも上から目線の部外者の意見はクレームにしかならないこともあるので注意が必要だと考えます。

また、教育関係者の方であれば、「教科書にそう書いているから」、「今のままでいい」ではなく、本質的な教育というものを目指していってほしいなと思う所存です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?