私のあの日の話


今回の文章は見る人によっては嫌な気持ちになるかもしれません。

はじめに行っておきます。これは8年前の今日のお話です。
今でも忘れることはないのですがいつか忘れてしまうことがないよう、ネットの海に泳がせておきます。


私はもう高校を卒業していました。
他の子たちよりも早く進路が決まり、長い春休みにも飽き始めた頃。


携帯の調子がずっと悪かった私は親と一緒に近くのモバイルショップに足を運びました。
携帯を無事修理にだし、代替機にデータを移し替えた時、ふと揺れが起こったのです。
モバイルショップがあった場所は大きな車が通ると揺れるような道路に面していたのではじめはまた自動車が通ったんだな、という風に感じました。


しかし、揺れが長かった。


普段ではあり得ない長さの揺れ、決して大きなものではなかったけれど、異変を感じた私達は店員も含め外へ。
普段ならない、道路の揺れだけでなく電線の揺れがこれは地震であることを私に伝えてくれました。


当時のSNSの主流はmixi。
私は携帯が修理中でしばらく使えないことをまずここにあげました。
遠くで起こっていることは一切知らなかったのです。


その後近くのイオンに行った時、事の重大さに気づきました。


まるで川のように流れる家、土、車。


イオンに置いてあるテレビ画面は全て津波の映像だったのです。
親も私も、いやその時周りにいた人は皆画面を見つめていました。


これは、異常事態だ、と。


私が住む地域は幸いにも大きな被害はありませんでした。二日後に震度5ほどの揺れは観測しましたが。


同学年の関東以北の子たちは皆、入学が遅れました。
そもそも、この影響で受験が遅れ、浪人する方もSNSでは見受けられました。


その後、私は大学のとある授業で教授からある言葉を言われました。


「君たちは3月11日のことを覚えているか?」と


グループゼミのような形だったため、各々がその人のことを語ります。みな、詳細まではっきりと覚えているのです。


「大きな出来事のあった日は、他のことまで覚えているものだ」


とも教授はおっしゃっていました。この方は心理学の先生だったからこその発言だったと思います。


あれから早8年。
私の記憶ではまだ揺れ動く電線をはっきりと覚えています。


そのあといくつか別の地域でも災害に見舞われ、私自身もその中に巻き込まれるものもありました。

でも、これだけはっきり覚えているのは、やはりこの日なんです。


何かが言いたかったわけではないので、ここまでにします。


とげのは。


記事いいね!サポートしてやっかーと思ったそこのあなた!!ぜひよろしくお願いします!!いただいたものは私の血肉となり体全身を伝って指先に伝わったのちに文章化されます。