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君たちはどう生きるかで感じるオーナーシップマーケティング

という言葉をふと思いついた。

ツイッターの強みは、ユーザーが自分ごととしてツイッターの趨勢を語っていることだ。これは2007年組もそうだし、今どきのツイッターユーザーにも見られる光景である。ある種のオーナーシップを持っていると考えることができる。

それに対して、facebookにオーナーシップを抱いてる人はほとんどいないので、便利には使っているが衰退しても、ツイッターのようには悲しんだりはしない。もちろんそこでこそ得られた出会いの経験などがあれば違う人もいるだろうが、学生時代以来行ってない飲食店が潰れたものを嘆くような思い出話を聞くだろうなと思っている。

ツイッターの場合は、イーロン・マスクの立ち振舞が悪いと、みんなが感情的に怒って、似たようなサービスに移動しようとしたりする。2008年の頃はツイッターが不安定だったことと、他のサービスが出てきたことで移動する人たちが結構いた。

しかし、しばらく経つと、しれっと帰ってくる光景を何度も見ている。それはある種のツンデレみたいなもので、マインドシェアをツイッターに置いたまま別のサービスに浮気している人が結構多いのではないか?とツイートを見ていて感じることがある。つまりツイッターにアクセスしたいのだけど、ちょっと気に入らないことがあるから他のサービスに浮気しているだけで、そういう人の本命はあくまでもツイッターなのだ。

ツイッターが廃れるのは、タイムラインとは全然違うユーザインターフェイスで同じようなリアルタイム情報共有の代替手段ができた時だと思う。ツイッタークローンのUIが出てくるたびに、それはユーザからすると、ただの代替手段しかないのだよ…と既視感しかないので、構造が分散型であるとか、ユーザーにはどうでもいいけど、ちょっとした新しいフィーチャーがうまくいくといいですねとネット業界で働く人間として祈っている。

さてタイトルに書いた、宮崎駿の最新作「君たちはどういきるか」であるが、これについてもみんながジブリの行く末などを心配してネガティブ気味なレビューを書いている。そもそもマスのCMに向けてPRしてない時点で、なんらかしらの偏りがあることは想定して見に行っているハズだ。その上で率先してネガティブな意見を述べている光景は面白い。

でも、これはある種のオーナーシップを宮崎作品に重ねて勝手に期待し、勝手に失望しているというコンテンツの消費スタイルなのだと思って考えてみる。失望と言う言葉はいささか大げさで、ただただ期待してるからこそネガティブをSNSに発信するということだ。どうでもいいコンテンツだったらただただスルーされるだけなわけで、お金を払ったから失望してるんだと読むのはちょっと違うかなと思っている。

しかも、そういうツイートをSNSに発言することで、他の人もネタバレを続けられるぐらいなら見に行こうじゃないかと映画館に足を運ぶ

昭和のメディアトレンドの中心はテレビであるが、buzz形成過程として週明けに友達との話についていくために一生懸命TVを見ていた。インターネットにおいては、情報が非同期に与えられるので、他人のネタバレによって余計に知識を得るぐらいなら、自分の目で見ておこうという流れが生まれたとするならば、それは非常に興味深い。

その感情の源は、他人についていけないとかではなく、他人のレビューが山程存在する前提で、自分ごととして経験を得てからネタバレに触れたいと思うからではないだろうか。ネタバレに対する共感度は作品を見ているか否かで全然違うし、賛否両論あるようなコンテンツであればあるほどネタバレに対する感情の振れ幅が心地よいものとなる。また友達のネタバレコンテンツを読むパーミッションを得るために映画館に行くというエネルギーが発生していると考えることもできる。

ロイヤリティという言葉がマーケティング用語ではあると思うが、ロイヤリティよりももっと主観的なオーナーシップの方がいいかなと思った。それもまた熱狂的なファンという表現なのかもしれないが、インターネットで発信する視点だとすると、プロダクトの消費スタイルとしてユーザーに主観的でワガママを許容するところにオーナーシップという言葉を使った意味がある。

「ツイッターが少々落ちるぐらいでロイヤリティが失われないのは、そこにユーザによるオーナーシップが存在するからだ」こんな言葉遣いをします。

ジブリがいっさいマスのCMをやってないという部分には、客におもねったメジャー受けを狙った作品ではなく、ある種の遺作としての立ち位置を優先するが故に、損益があわないからという視点もあるだろう、たぶん、それが事実なのだろうが、そうじゃなくてこのSNSのbuzz形成を狙ってやっていたとか、期待していたとすると、日本で最高のクリエイター集団がやったこととしては、すごい賭けだと思うが、ひょっとしたら最高のSNSマーケティングになるのかもしれないし、そうなったらいいなと思っている。

もしかしたら最期の宮崎作品になるかもしれないが、PRの手法にとんでもない爆弾を置いていくことになるかもしれない。そして、このオーナーシップを宮崎吾朗が継ぐことができたら、いろいろワンチャンあるんじゃないかと、それはさすがに考え過ぎだとは思うが、そんな流れになったら面白いなぁと夢想してこの記事を書いてみた。

すべてのクリエイターの理想は、ユーザーが傍若無人に批判しつつも決して本当の失望はしないオーナーシップをもったファンをどれだけ増やせるかだと思う。そこでのdisに耐えられないクリエイターが多いのは悲しい限りであるが、そこまで含めたプラットフォーマー的な包容力が現代のクリエイターには必要なのではないだろうか。圧倒的な量だがネットでは見えない無関心と、可視化されてしまうネガティブな関心の違いを使いこなすための視野が必要なので簡単ではないのは、まぁわかるが…

追記:やはり初動よさそうですね!


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