SNSで観察できる、良い、悪いと断罪する悪い癖

SNSやYoutubeを見ているとさまざまな動画があるが、僕が車が好きなせいで、車のドライブレコーダーで記録された自動車事故の映像が流れているショート動画などがよく流れてくる。

自動車事故というのは、明らかに頭のおかしい人による未遂事故の映像もあれば、抜かしていったフェラーリがその先で自爆しているような映像もネタとなる。しかし、気になるのは自動車同士が喧嘩のような状態になって、煽り、煽られみたいな映像を見るのだが、これに対するコメントで、「Aが悪い」「Bが悪い」などのコメントが散見される。

これを逆手に取って、明らかにあなたが相手を煽って相手を怒らせた後であろうトラブル映像を流して、自己顕示欲や復讐心をSNSで晴らしているような動画も散見される。そこでは、狙ったように釣られてくれた視聴者が、如何に相手が愚かな行為であるかをコメントで書いてくれるので、それで自分は間違ってないんだと確認するような作業なのだろう。

こういった映像についているコメントを眺めていると、事象に対して「正しい」「間違っている」と言いたい人が思いのほか多いことに気がつく。結構これに違和感があって、めぐり合わせの悪さによる事故だったりすると、Aが悪いとか、Bが悪いとかではなく、AもBも悪かったり、あまりにも不幸なタイミングの問題があると思われることが多いのに、感覚的にAやBが悪いと書きたくなるんだなぁと思ってコメントを眺めている。

あまりいい例ではないかもしれないが、露出の高い服を着ていた女性が襲われたとして、昔であれば、露出の高い服を着ているからそうなるんだと言われることがあったが、最近であれば、女性も自由な自己表現を楽しみたいことは常識だし、そもそも襲った奴が悪いに決まっているわけなのだが、襲った奴が実は性的な依存症を持っているが故に、衝動を抑えられなくなって、襲ってしまったとすると、結果としてはその人の抑制心を釣ってしまったが故におきた事象かもしれない。その二人がよからぬ場所で出会ったことがよくないということになる。

ここで女性が悪いんだと断罪するのは今の価値観としてはNGだが、女性を断罪するような匿名コメントはSNSではいくらでも見ることができる。しかし、そもそも問題はそういうことではなく、その不幸な事象が起きたという事実に、良い悪いという価値観で見る以外の視点で考えることはできるのではないだろうか。

それは、学校のいじめの話もそうなのかもしれないし、交通事故もそうなのかもしれない。人間は、生きながらいろんな人と遭遇する。もしかしたら、あと10分、手前で別の行動をしていれば、その事故には合わなかったかもしれない。人生は常にルーレットを回しながら行動を選択し、他人の選択ルーレットのマッチングによって、多様な人間同士が、たまたま遭遇してしまった場合に、何かの事象が起きてしまう、と考えると、めぐり合わせの良し悪しのことを「運」というのかもしれない。

僕が、事故のような映像を見た時に思うのは、「それ以上の事故が起きなくてよかったね」「こんな人と遭遇してしまったのは不運だね」などであるのだが、Aが悪い、Bが悪いと書いたところで、それ自体にあまり意味を感じないし、社会のルールを破る人はこの世にたくさんいるので、何にせよ、このタイミングで近距離に遭遇してしまったこと自体が不幸だったとしか思えない映像の方が多い。

そうではなく、そういう事故を起こさない、遭遇しないためにはどうするかって考えた方がコメントとしては生産的ではないのかなぁとは思いつつ、きっとこういう人たちの動画の楽しみ方は、そういうことじゃないんだろうなぁと悶々とすることがある。

しかし、まあ、こういう文章って理屈っぽい、言われる話かもしれないね。日常会話でこういう話がでてきたら、Aが悪い、Bが悪いって話の流れにはちゃんと乗ります。空気は読むタイプなのでw


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