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とあるスロッターの昔話[パチスロとの出会い編]

こんにちは、スロッター投資家のひのまるです!

今回は生涯収支1,000万円以上の私がどのような過程でパチスロ に出会ったのかを書いていきたいと思います。
今でこそ期待値を追える考え方を手に入れましたが当初は酷いものでした。
無駄打ちや過度な期待も多かったですし💦

ではでは、パチスロとの出会いを書いていきたいと思います。

◆パチスロとの出会い

パチスロとの出会いは今では考えられない状況である。
物心ついた時には既に出会っていた。5〜7歳そこらである。

今から30年以上前は平気でパチンコ屋に子供がいた。
店員も注意しないし、大人たちの間にも連れて行ってはダメという考えも無かった。
私は小さい時にパチンコ屋に行くと、落ちているメダルや玉を父親に届ける遊びをしていた。当時はそれだけでも楽しい遊びだった。

しかし、私が行き始めた(?)辺りから誘拐や車への置き去りなどで子供の犠牲者が出てしまった。当時は社会問題となり、その後そう易々とパチンコ屋に行くことが出来なくなった。
今思えばそのまま一生涯行くことが無ければ、また、違った人生を歩んでいたかもしれないと、感傷にふけることもある。良い意味でも悪い意味でも。

◆パチスロ との再会

パチスロとの再会はそれから大分経った20歳の頃である。

途中、麻雀やトランプ版のカブ、ポーカー、ブラックジャックと遊びでやってはいたものの、一過性のものであり直ぐに下火になっていた。当時はどちらかと言うと、ちょっと「大人の遊び」をするということに酔っていただけだった。今思えば可愛いものである。

話を戻して、再会したのは大学生の時である。
何の変哲も無い理系の学生で1年目は至極真っ当に過ごし、そのまま行けば留年はなかったように思う。結論から言うと留年してしまった、パチスロが原因で。

大学2年生の時、精神的に落ち込んだ時期があった。今思えば大したことはないのだが当時は酷く大きな問題と捉えてしまっていた。
その時、例の父親にパチンコ屋に誘われた。元気が無かったのを見かねたのであろう、ちょっと刺激を与える荒療治をしたのだ。
息子の自分が言うのもなんだが、色々と雑である。
が、そんな雑な一面に苦労もあるが助けられたこともある。

◆懐かしきキングパルサー

その時打った機種は4号機のキングパルサー(以下、キンパル)である。
右も左もわからなかったので父親について行き親子並んで打ち始めた。
(その後、何回も父親とパチンコ屋に行くが、並んで打った回数は恐らく片手で収まるぐらいに貴重な場面である)
当時のキンパルはリールのバックライトも暗く目押しが難しかった記憶がある。
そもそも目押しの概念も知らなかった。子役など平気で取りこぼし今では考えられないことをバンバンしていた。

先に当たったのはビギナーズラックよろしく私であった。目押しが出来なかったため父親に7を揃えてもらいリプレイ外しを教えてもらいながらボーナスを消化した。

ボーナス終了後、即辞めを父親に提言したが却下された。
当時の私は「パチスロ=ギャンブル=運」という頭であり、「父親より先に当てられた、入れたお金より浮いた。従って今日の運はここまで。即ち辞め時である」と判断した。

出資者の父親の命に従い渋々続行すると直ぐに当たり、連チャンし始めた。
やはりベテランの指示には従うべきなのだなとその時は感心した。
が、今思うのは中身を完全に理解してのアドバイスでは無く、単に「直ぐに辞めたら面白くないじゃん」という感覚的なものである。
事実、父親は後に「ジャグラーの天井は?」などと聞いてくるぐらいの知識であった。

◆初戦はキンパルで勝利!

幸いその日は父親の財布を傷めることは無く店を後に出来た。
勝ち分は折半した記憶があるがせいぜい5,000円程度だった。
しかし、38円/100gの鶏むね肉を狙って買っていた身分としては大変な金額である。
当時は1ヶ月の食費代を30,000円以内に収めるように努力していたので大変楽になった記憶がある。貧乏学生だった。

今回は以上となります。


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