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引っ越し前のナーバスに陥るがそのままに心を見つめる。

姉が7歳位の頃、実家(僕にとっては生家)が出来た。それ迄家族が住んでいた新宮相筋の市営住宅から、引っ越す時に姉は「前の家が良い」と言ってくずり一度は子供ながらに家出したともいう。

和歌山の陸の孤島、そのまた山の片隅に、抽選で当てた土地に父と母は諸手を上げて喜んだ。

祖母と姉、父と母で暮らし始める実家は、静かで空に近い場所。あの場所の空気を思い出すと、もうそれだけで何も要らない。と、思える。

今ではもう築50年も経ってしまった小さな家ではあるが、父と母が懸命に働いてどうにか何とかローンを完済した一生を掛けて守り抜いた実家だ。

僕は、その家に新星の如く生まれ落ちた。
父と母のもとで、1人の人間として手厚く愛し守られた。振り返るとあの実家があったからこそ、僕が生きて来られた。

親の期待に背いてはいけないと、とにかく真面目に真剣に良い子として生きて来た為、特に目立った反抗期は無かったけれど、田舎の未成年らしく割と早いうちからお酒やタバコは覚えた。

親がそんな大変な思いで建てた実家に、友だちと大勢たむろして、悪いことも沢山した。振り返るだけで胸が痛む。

訳の分からない身勝手な17歳のころ、夜仕事を終えた母と大学進路の話をした。中学3年の受験と失恋後にキッパリと勉強をやめてしまった自分には、受かる大学などあるはずも無かった。

僕はただ、それでも、自分が何か大事なことを持って生まれている根拠のない確信だけは持っていたので、将来は文章を書きたいのだ。と、母に告げた。して、自分で何らかの内申点と論文だけで、受かりそうな南河内芸大の文芸学科に行かせて欲しい。と、お願いした。

その前にエピソードがある。不登校になり掛けていた高一か高二の頃、机に書きかけの文章を置いて不貞寝しているところに、母が来て、学校に行かないことにひと叱りした後、「描写は上手くなってきたね」と突然言った。

あまり自分のことを話さなかった母が、実は私も文章を書いていたのよ。と、古いノートを見せてくれた。そこには母の集団就職のエピソードや、母の母への想いが綴られていた。

子供心ながらに、これには叶わないな。と、思った。僕はしばらく考えごとをしてから、学校に向かった。学校では何をしていたか?友だちの機嫌を伺ったり、野球をしたり、恋をしたり、やっぱりサボってカラオケに行ったり、、、。

親には何と言えば良いか?
ただ、いつかは偉くなって、親を楽にさせたいと、何とかギリギリの勉強で許しを乞い、高校、大学を卒業し、超氷河期の最中にマスコミ(といっても小さな制作会社だったが)入社試験を突破して、一端のサラリーマンになった。

あれから20年、幸い両親は健在だが、自分自身は離婚、家の追い出しを経て、今その追い出し後住んだ家にも別れを告げて、随分とボリュームダウンする1DKに移り住む。

6月からこのコロナの経済状況を鑑みて、引っ越しを考えたが、熟考型の自分の悪い癖で、こんなにも時間が掛かってしまった。

最終的には職場との距離、家賃、せめてもの癒しに眺望を選んだ。勇気を持って大好きな海の近くに行きたかったが、まだ少し独り立ちする気概と準備に掛けていた。何も無いところに道を作る術がわからなかった。

さっきまで降っていた雨が止んだ。
これから、オンライン会議がある。

どんな顔して出ようか?
まだまだ不安定でナーバスな、
ちっちゃい男だけれど、
恐らく、さもなんか考えてる風の顔で、
登場するんだろうなぁ。

でも、書いていて、
この場所からの引っ越しを、
7歳の時の姉と一緒に克服したいと思う。

僕は家族と実家に支えられて生きている。
そのことは、何処に行ったって、
幾つになっても変わらない。

あの実家の存在に向き合うことが、
もしかしたら、これから僕がすべく生き方なのかも知れない。

終わり

最後までお付き合い下さりありがとうございます。また、どこか生身で会話出来たら面白いですね。良きご縁に感謝します!