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やっぱりJリーグが好きだ。

満員電車に揺さぶられ、疲れた身体は今日も家路を辿る。

小学生の時の夢は、サッカー選手。

結果的に小学生の時に思い描いてた"大人"にはなれなかったが、まぁみんなして小学生の頃の夢が叶っていたら、男の子の半分はスポーツ選手だし、総理大臣はこの国にうじゃうじゃ居るし、女の子の大半はケーキ屋さんになる。

寧ろ、小学生の頃の夢がそのまま叶う人の方が圧倒的に少ない。

そう自分に言い聞かせ、日を追うごとに理想から乖離していく自分自身を肯定するように生きてきた。

サッカーをやっている人にとって、プロサッカー選手になれるかどうかの最大の分岐点は"高校時代"だ。

高校2年あたりから、プロになれそうなチームメイトやライバル校の選手はJリーグの練習に参加する。

当たり前だが、世代別の代表でもなければ国体にすら出ていない僕がそこに呼ばれるはずなどなかった。

普段一緒に試合に出ているチームメイトや対戦相手はどんどんJリーグや大学の練習に参加していた。

実力不足なんて自分が一番分かっている。
試合に出ていても明らかに自分が"穴"になっているのも分かっていた。

正直、辛かった。


僕の所属していたサッカー部の部員は100人くらい。

部員の大半は中学の時点で声がかかり、所謂スポーツ推薦で進学した人たちだ。僕も、その一員だった。

高校サッカーはベンチ入りが18人。つまり、僕の高校の多くのチームメイトは3年間トップチームのユニフォームに袖を通すことが無く引退の時を迎える。

上述した通り、明らかにトップチームで試合に出るには実力不足だった僕は高校2年の終わりにあっさりポジションを失った。しかも、1つ下の後輩によってそのポジションは僕の手からスルリと離れた。

僕はその瞬間から、サッカーに対する情熱を失った。

試合に出ても周りは世代別代表の選手や、ナショナルトレセンの経験者たち。

県選抜の選考会で思いっきり落とされた僕が居ていいような世界ではなかった。

高校3年次の最後の大会を終え、僕は"ポジションに戻ることもなく"引退した。

試合が終わり、ベンチコート姿の僕は大応援団の元へ挨拶に行く。

これで、終わり。やっと、終わり。

辛い3年間だった。心も体もズタボロになった。

スタンドに向けて深々と頭を下げた瞬間、僕はボールを蹴り始めたあの日からの"夢の終わり"を実感した。

もう僕はプロサッカー選手にはなれない。

そうと決まれば、残りの高校生活くらいは謳歌したい。

その言葉通り、引退してからの日々は"遅れてやってきた青春"のようなもので、本当に楽しかった。

毎日遊んだ。甘酸っぱい恋もした。

現役中は休みは年末年始のみ。彼女ができたって出来るのは僕の試合に見にくることくらい。見に来たって彼氏はベンチだ。彼女はベンチで地蔵のように固まる僕を見て何を思っただろうか。もちろんフラれた。

余談だが、試合を見に来た元カノは、僕を振った後にその試合でハットトリックをした後輩FWと付き合っていた。結局FWとピッチャーがモテる。

そんな楽しい生活が続き、しばらく経ったある日、母の携帯の調子が悪いと言うので僕は母の携帯を直そうとした。

携帯の"設定"のアイコンを押そうとしたら、僕は間違えて母の携帯の"写真フォルダ"を開いてしまった。

すぐに戻ろうとしたが、僕の手はそこで止まった。

そこにあったのは、丁寧に畳まれた僕の"背番号2桁のユニフォーム"の写真だった。

僕の目から大粒の涙が溢れ出した。

僕がボールを蹴り始めたその日から、母は1日も休むことなく朝ごはんとお弁当を作ってくれた。

遠征の日も車で遠くまで試合を見にきてくれた。

夜遅く帰っても栄養バランスを考えたご飯が毎日出てきた。

十何年もの間、僕の泥だらけのユニフォームを文句の一つ言わず洗い続けてくれた。

明らかに僕のミスで負けた試合の帰り道、母は落ち込む僕に「最初から成功する人なんて居ないんだから」と優しく声をかけてくれた。

そんな母の、息子のサッカー選手としての最後の記憶は"綺麗な二桁のユニフォーム"

僕は一番やってはいないことをしてしまった。

本気でやって、全力で取り組んだ結果がコレならまだしも、僕は情熱を失い何となくサッカーに取り組んだ。

その結果がこれなのだ。

なんて情けない息子なんだろうか。

父は元々サッカーをやっていたのだが、僕が少年サッカークラブでボールを蹴り始めたその日からコーチとなり、それからはどこに行くにも父と二人三脚。

練習が終わった後も父とマンツーマンでトレーニングを積み続けた。

審判の資格まで取り、ずっと一番目の前で僕を支え続けてくれた。

小学生の時、家庭訪問で担任の先生が家に来る予定だったのだが、大会が近いということで父が僕を連れ出し、近くの公園でトレーニングをした事があった。

家庭訪問で先生が家に来ると、主役の僕がいない。

担任の先生は苦笑いし、母は平謝り。


こんなに身近な、一番のサポーターがいたにも関わらず僕は、大舞台で試合に出る姿すら見せられずにスパイクを脱いだ。

このスパイクだって、父が汗水たらして働いたお金で買ったものだ。社会人になった今だからこそその重みが分かる。

もう僕はサッカー選手としても、息子としても失格だ。

その日から僕はきっぱりサッカーと縁を切った。

テレビでもサッカーは見なくなったし、ボールを蹴ることもやめた。

たくさんあったサッカースパイクも全部後輩や弟に与え、いつも勉強机の下に隠して、勉強してる時もずっとリフティングをしていたミニサッカーボールも近所のちびっこにあげた。

18歳の僕が考える、せめてもの償いだったのだろう。


それから数ヶ月後、僕は大学進学に伴い上京した。

大学に入ってからもボールを蹴ることはしなかった。サッカー道具は何一つ持ってこなかった。これで良かった。これからはしっかり勉強して、いい会社に就職して、少しでも親孝行、いや、償いが出来たら。

そう思っていた。

そんな"サッカーと縁を切った"日々を送ってしばらく経った頃、単身赴任のため神奈川で一人暮らしをしている父から連絡があった。

「今週末、暇ならフロンターレの試合を観に行こう。」

我が家は元々家族揃って"川崎フロンターレ"のサポーターであり、よく父と弟は実家から車で400kmほど離れた川崎市に試合を見に行っていた。

僕のオフは年末年始のみ。後は毎日サッカー漬けの日々だったので試合はテレビでしか見たことがなかった。

正直、少し悩んだ。

フロンターレはよく家族の話題になるから選手は知っていたし、実家にはサインもグッズもあったけど、僕はもうサッカーとは縁を切った。

今更サッカーなんて見たってきっと面白くもなんともない。



結局、高校時代に情けない息子を演じてしまった後ろめたさが強く、この誘いを断ることはできなかった。

試合当日、僕は等々力陸上競技場に向かった。

昔よくテレビで見ていた選手たちがピッチの上に居る。

中村憲剛、あんなところまで見えているのか。

大久保嘉人、ゴールばっかりクローズアップされるけどやっぱり技術がしっかりしているんだよな。

あれが期待の若手、小林悠か。ポジショニングがいいから裏抜けが綺麗だ。

久々の緑の芝。ボールの音。サポーターの歓声。選手たちの声、表情。そして隣には自分の一番のサポーターであった父。

五感から入る全ての情報が、まるでカラッカラだった大地に水が差し込むかのように自分の中に入り込んでくるのを感じた。

なんだろう。この感じ。

久々に味わう。この感じ。

友人と遊んでいても感じない、言葉に言い表せない感覚。

初めて小学校のグラウンドでボールを蹴ったあの日もきっとこの感覚だったんだろう。

楽しくて、楽しくて仕方がない。

これがサッカーか。

これが、僕が人生の大半を共に過ごしてきたサッカーか。

そんな思いに浸っていると、後半終了間際に大久保嘉人が劇的ゴールを決めた。

その瞬間、僕は父と抱き合った。

記憶の限り思い返しても、恐らく僕は父と抱き合ったことが無かった。

その瞬間、僕は"もう一度"父とサッカー人生を歩めるような気がした。

第二のサッカー人生は選手とコーチではなく、共にサポーターとして。


その日の夜、母から連絡があった。

「お父さんとサッカー、観たんだって?」

文面だけで十分伝わった。この向こうにいる、温かく微笑んでいる母の表情が。


さぁ、2020年シーズンが始まる。

川崎フロンターレに出会わなかったら僕は家族にずっと後ろめたさを抱えて生きていただろうし、二度とサッカーと関わることなんてなかっただろう。

もう一度、このワクワク感を思い出させてくれたこの競技に、僕の人生を変えてくれた愛するこのリーグに、そして川崎市に縁もゆかりもない僕が人生の全てを捧げたいと、心から思えるこのチームに、最大の感謝を込めてこう言わせてほしい。


「やっぱりサッカーが好きだ。」


「やっぱりJリーグが好きだ。」

そして何より

「やっぱり川崎フロンターレが好きだ。」


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