亡くなったじいさんとの強烈な思い出を残そうとしたら思わずのろけてしまった。

2016年に89歳でなくなりました。
最後の会話は89歳の誕生日での
「入れよ…。」だった。
いつもお風呂上がった後に言う言葉。
そっから三日間40℃の熱が出てそのまま亡くなった。
孫思いの僕唯一のじいさん。

天然やけど力持ちで定年過ぎても大工して農業して、毎日呑んでた。同じ日本酒を毎日呑んでた。
本当に死ぬまで飲んでた。
深酒はしなかった。アル中ってわけでもなかった。
呑んだら風呂入って、でっかい声で歌謡コンサートにガヤ入れて、気分よく寝るだけ。
その歌謡番組のガヤも毎週火曜夜8時のNHKだけ。
ガヤ入れるタイミングもよくわからない。
かといって他の歌謡番組や紅白ではガヤらない。
隣の部屋から大きな声で聞こえて来るおたけび?。
そんな感じ。言葉やない。
歌手がシャウトするかのよなタイミングでガヤってた。もしかしたらただのシャウトかもしれない。

僕らが観てるテレビに出てる人やキャラを、部分的におぼえてた。
岡村(ナインティナイン)
石田(ホンジャマカ石塚)
きり丸、しんべえ、両津、コナン
おぼえるチョイスはマジでわからなかった。

お腹に交通事故の手術痕があったじいさん。
孫2人がかりでも腕相撲負けなかったじいさん。
ずっと同じ髪型と服のじいさん。
しれっと遺影を撮ってたじいさん。
アラナイになるまでお腹の出なかったじいさん。
目がでかいからアバター化しやすいじいさん。
ナビ無しで孫の送り迎えしてくれたじいさん
正月に百人一首する時はずっと読み手のじいさん。
新聞の気になった所は音読するじいさん。
サザエさんのジャンケン勝つ為に「何出したらいい?」と、エンディング流れてるたびに聞いたら、すぐ答えてくれたじいさん

歳のせいか夏場に食欲落ちた時、京都にハマってた僕は水茄子の漬物が好きになり、あまりにも美味しくてその日じいさんに切ってあげた。薄切りしたけど大きいのか?食欲湧かなかったらしくて、刻んだら素麺に入れて全部食べてくれた。
おそらく最後の孫孝行。

忘れないうちにじいさんについて、
強烈に頭に残ってる事を残します。
じいさんと居て特に記憶に残った思い出を何個か。




僕と元カノと妹とローストチキン編

調理師学校に通ってた時のお話。
前の記事のnoteにも書いた日に起こった事。
その日は学園祭で荷物も多かったし朝早くて疲れてたし、焼いて展示したローストチキンを持ち帰りたかったし、当時の彼女と食べたかったしで、迎えを頼んだらじいさんが来た。
母親の迎えと勘違いした妹も乗ってた。

こうして私と、同じ学校に通う後輩で5歳下の私より10kg重い当時の彼女と、妹とローストチキンを乗せ実家に帰った。
ど田舎にある学校からど田舎の道を通る帰り道。
街頭も少ない周りはほぼ田んぼの道と山道。
疲れてたのもありほぼ車中の会話はなかった。
なんとなく景色のついでにメーターを見たら
時速100kmになっていた。
あわてて周りに人や物が無いのを見てからじいさんに、「じいさん!100km出てるで!」
と言ったら
「おう。出とるな。」と真顔でつぶやいた。
確信犯なのか偶然なのか最後までわからなかった。
よく無事故無違反で生きたなと思った。
よく死ぬまで朝早く交差点で小学生の通学を見守ってたなと思った。
最後は家に突撃してもて車は大破したけど怪我はなかった。もしかしたらとんでもない事になってたかも。幸運なスピード狂?のじいさんであった。



幼きエドワード編


おそらく幼稚園児(5歳)の時のお話。
きかんしゃトーマスに父さんと私でどハマりし、
遂にはおもちゃを買ってくれることになった。
プラレールよりクオリティの高いやつ。
ビルとベンと言うふたごのきかんしゃを買ってもらったタイミングで次はエドワードが欲しくなった。
ビルとベンと言えばエドワードなとこがある。
(通にはわかる)
エドワードを買ってもらう為に私は日曜の昼に、
じいさんに頼み込んで出かける事になった。
ところが、そのおもちゃのシリーズの名前がわからず(プラレールとかなら言えたけど)
売ってるおもちゃ屋さんの名前もわからず、
おもちゃ屋さんがどこにあるかわからない事に気づき、何を言ったら伝えたらいいかわからなくなった僕は、車の中で黙り込んでしまった。
そもそもじいさんと2人で車に乗ったのが楽しかった。ただ日曜にシンプルなドライブをして終わった。じいさんも察したのか?何も言わずに少しドライブして帰ってくれた。あの日どう言えば買ってもらえたんだろう?と今でも思う。買えなかったけど不思議と楽しくもあった日の思い出。



鷲羽山ハイランドのサンバのお姉さん編。


小学校2年生の時に岡山にある遊園地に親戚と行った時のお話。初めて新幹線に乗った日!。
鷲羽山ハイランドと言えばサンバ隊!。そんなことも知らずに向かった日。バンジージャンプやりてえと思いながら(無論無理やった)休憩スペースでかき氷食べてると、本場ブラジル?のサンバ隊がやってきてサンバを始めた。
1人のサンバの外国のお姉さんがやってきて、
じいさんのほほにキスをした。

キスやチューをする事を人としてみっともない事だと思ってた当時の僕は怒った。キスされたじいさんも怒ってた。

それ以来僕は洋画に興味持てなくなった。
話題の映画も興味持てなかった。
ハリーポッターすら見なかった。
観たのは友達や彼女と観た、
オズ はじまりの戦いとチャーリーのチョコレート工場ぐらいやった。
まさか25年後に12歳下のベトナム人と付き合う事になるとは夢にも思わなかった。

もし長生きしてて、彼女や嫁が居たとひて紹介したら何て思ったやろうか?じいさんは。亡くなる数ヶ月前にドッキリがてらに当時の彼女を部屋の窓から紹介したら、立ち上がって「よろしくお願いします!」
「………わがままな奴ちゃけど…。」って要らん事言いはった。
結婚と言うかひ孫すら見せれなかったのが孫達の思いやね。恋人や夫や嫁に線香上げさせるの嫌やね。

最後の会話となった次の日に入院した。
医療従事者の母親が「覚悟しとけよ」と言われ気持ちを整えに入った。89歳。無理もない。
見舞いには行かなかった。
弱ってる所見られたくないやろと勝手に思った。
母親からの「爺さん亡くなった」のLINEで知った。
入院して3日後やった。
待受の通知で生き死にもわかる時代なのか…って。その日は強引にブラック企業の会社の飲み会に連れてかれそうやって、死を理由に告別式に参加できたし飲み会も断れた。あれが最後の爺さんの贈り物かも知れへん。無遅刻無欠勤のブラック企業を初めて早退し通夜へ。告別式も四十九日も泣かんかった。
泣かずに居てやろうと思った。毎日親戚来てしんどかった。M-1とも被ってなおさら勘弁してくれと思った。
初めて泣いたのは当時の彼女の実家に行った日。
彼女のおじいさんがおじいさんが座るような木の回転椅子に座り、素早く回ってにっこり出迎えてくれた。その時おじいさんが家に居るっていいなって羨ましくて彼女の部屋で初めて涙した。

今でもサザエさん見るときは頭の中のじいさんに「何出したらいい?」って聞いてからジャンケンしてる。

書いてたら惚気ちゃったな。






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