忘れない間にメモとして記事作成。

仏教で説かれている四悪趣。私の安心して穏やかな気持ちで生活している時間を、突然、壊す目的で接してきているとしか感じられない言動。そういう出来事の時に、2022年以降。今迄に4、5回だけですが。私は、1つの同じ考え出の反応を実験的に続けるように努力しています。
私の考えでの日本国在住の一般的な成人として考えられる想定の『量と質、どちらの点も合せて我慢の限界を超える程に不快感を押し付けられた経験』。そういう経過後だからこそ考えられる反応だと、私は思いました。
その1つの反応の形式の基礎とは。過去に、その相手の人から、私が衝撃や苦悩を感じた出来事の時の、その相手の人の言動と同じような言動を私からその相手の人へ行う。簡単に云うと、過去に有った出来事の時のその相手の人の真似です。



今日の午前中、自宅ガレージで。私は、夫と一緒に仕事の作業をしている合間に、洗濯物を干す作業を行いました。その時に自宅へ来てくださいました、ある女性は、うちの自宅へ来た目的の用事を終え、うちの自宅の敷地から道路の方向へ約5,6歩進んで歩いた後、洗濯物を干している私のそばへ戻って来て、私が正確には聞き取れない早口や怒鳴り声でなんだか起こっているようすを私へ見せました。 なので。私は「暑い中、足を運んでくれてありがとう」と話しました。その途中ぐらいの時に突然、その女性は『ろくに働きもしねぇのに。』。 私は、その女性が自宅に来た用事と全く関係無いし、なにがなんだか分からない感じでしたが。もしかして、老いと暑さからの疲労に悩んでいらっしゃるのかも知れないと、気配りが働きました。
私は、そうそう、この女性の人は、私の低調な口調をお嫌いな人柄の人だと思い出した途端に、私は「おめぇやろうが。」と声にしてニコニコの笑顔で、その女性に優しさが伝わったかどうかを見てみました。 その女性は、ぶつぶつ、聞こえない程度の小さな声で何か言いながら、道を歩いてお帰りになられました。
もし、その女性自身が、過去のその女性が私へ放つように声にした『てめぇだろうが。』を思い出したとすると。私が義父といっしょに、頭を下げてお願いに伺ったあの時の思い出を思い出してくださるかもしれない。


他の場合も、私の過去に衝撃的に感じた出来事を、私が、その相手の人に直接、真似して言動した時が有ります。
その1つは。今迄に、私の記憶に深く残っている10回以上の出来事です。私が自宅敷地と道路との境辺りで立ち止まって作業している状態から歩き出そうとした時。突然、私のすぐそばを、ある人は車を走行して通った出来事です。その出来事を、私は私がその時々に感じたと記憶しているのと同じようには車を運転できません。人間として当然の、誰にも怪我をさせたく無いという理由です。
しかし。つい先日(2024年8月)。
過去に、私が身の危険を衝撃的に記憶した、自宅の敷地の端から40cm程度の所に居る私のすぐそばを、曲がりながらの車で近寄ってくるように通った後、道路をまっすぐに走って行った出来事。約10回だったかと今、私は思い出すように考えています。
その相手の人が、安心して信頼して話し合える人々に、私の車の運転が『危ない』『非常識』などの否定的な話をいっぱい、多く他言して欲しいと、私は考えました。


なぜ、真似を考え言動出来るように、私は変われたのか。私個人の現住所地で現状の私個人の生活状態では、言い争いよりも、真似が住人間の秩序や安全に有効だと、私は考えました。 私が相手である誰か自身の過去の言動を真似しました2,3秒の間の出来事について、私に良くない印象の話を他言したい考えがある人が居た場合。正確に記憶再生できる能力が多めの私の個性で、真似するような言動を試みる。 いつ私が、今の現住所地に居なくなったとしても。 人間は、さまざまな価値観があったとしても、善い意見を話すし考え続けるでしょう。