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幸福日和 #065「自分の言葉に宿るもの」

自分はいつもどのような「主語」を使っているだろう。
そんなことを考えることがあります。

「主語の失われた日常」に
自分が溶け込んでしまってはいないかと
思うことが多いから。

新聞やニュース、ネットを眺めていても、
日常のあらゆる出来事の「主体」がわからない。

誰が放った言葉か、誰が形にした仕事か。

身元がわからない結果や出来事だけが
世の中に溢れていく現代の中で、
そもそも主語というものが失われているのではないか。

これは言葉の進化なのか、退化なのか。

それとも僕たちが変わっているのか。


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昔から僕は、
人に興味がありました。

人間である僕が、改めて人に興味を持っていると語るのも
不思議な話なのだけれど、
自分が会社を経営していた時代、
多くの人々との出会いの中で支えられて
なんとか組織としてやって来れたことがありましたから。

会社の中では、自分以外の人間を知りたくて、
社員をよく観察していたし、
その度に、ひとりひとりの持つ個性に感動もしたものです。

人への興味はエスカレートしていくばかりで、
自分の会社の人事採用の機会があれば、
その多くに立ち会ってもいました。

と言っても、自分が代表だなんて言わない。
人事部長や採用プロジェクトメンバーの座るテーブルの隅っこに、
申し訳なさそうに僕もちょこんと座りながら
ニコニコとした表情で面接に参加していた。

面接を受ける人からすれば「あの人誰だろう?」と
謎の立ち位置ではあったけれど、
いつも自社ロゴの入ったパーカーを着てラフなスタイルでいたから、
おそらく企画関係の人間くらいに思われていたのかもしれない。

そういう場で、多くの人びと対峙しながら、
その人がどのような人生を歩んできて、
今日までたどり着いたのかに想いを巡らせたんです。

また、その人の能力や学歴以上に、
その人の語る「言葉」を知りたいと思って
初対面の人の発する言葉に触れることが、
僕のささやかな楽しみでもあった。

人と会話をする中で、
僕はいつも、相手の言葉使いを気にしています。

それは丁寧な言葉を使うかとか、
敬語を正しく使えるかとかそういうことではなく。
その人の日常を支えているのだろうと感じる、
その人なりの言葉。

中でもよく注意していたのは
その人が会話の中で使う「主語」は何なのだろうかということ。


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面接での会話が一通り終わった後、
僕が必ず尋ねることがありました。

「今まで失敗したことありますか?」

面接を受ける方からすれば、
ようやく面接が終わったと安堵したと思いきや
そんな質問を投げかけられて、皆ギョッとするんですね。
もちろん、僕もそうした相手の「素の瞬間」を
狙って聞いているんですけど。

そんな投げかけをして、
今まで色々な答えに出会ってきました。

いかにも真面目そうで、
自信ありげな男性からは「私は失敗したことなどない」。
またある方は「実は履歴書に書いてないのですが、、、」
と申し訳なさそうに打ち明けながら、
過去の惨憺たる出来事を泣きながら話してくれる人もいた。

人は皆失敗するもの。
どんな失敗をしたかは、大した問題では無いんですね。
それよりも、その失敗をどのように受け止めたかということが、
なによりも大事だと思うんです。

そんな質問をして、相手の話を聞いていく中で、
僕が特に気にしていたことは、
その人が失敗談を語る時に使う「主語」。

人は身構えている時は、
言葉を丁寧に用心深く扱っているけれど、
不意をつかれた瞬間にこそ、その人の本当の言葉として表れる。
と僕は思ってるんです。

そしてそれは、
その人の「主語の使い方」にもっとも表れる。

失敗談を語る時に「お客さんが」とか
「あの時のメンバーが」なんてことを口にしていたら、
その人は失敗に対して責任がなかったのかなと思ってしまう。

僕の今までの経験から思うことは、
失敗から真剣に何かを受け取ろうと考えてきた人ほど、
「私が」という主語の中で失敗談を語る人が多い気がします。

その失敗から多くを学んで
経験として蓄えてゆきながら今日に生かしているのだなと
話をしていてもよく伝わるんですね。

同じ失敗でも、人はどのように受け止めていくかで
全く違う道を歩むことになる。

そしてそれは、その人の使う言葉。
特に「主語」の使い方によく表れるのかなと思う。

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自分の言葉一つ、主語一つで
行動も生き方も変わって行くのだと思う。

そうした些細な積み重ねが積もり積もって、
その人なりの経験が編まれていきながら、
一枚の織物のような人生が広がってゆくのだと。

僕の記事を日々読んで頂いている方は
すでにお気付きのことだと思うけれど、、、、
、、、そして、自分の癖なのかもしれないけれど、
「僕は」の主語を使うことが多いんですね。笑

僕はある人に、
「自分の語る文章は、自分が前提なのだから、
一人称の主語などあえて使う必要はない」
と言われたことがあります。

それでも「僕は」たとえ意識過剰と言われようとも、
自分がどのように考えて世の中と関わってゆくのかを
大切にしていきたいと思うんです。

自分の生き方に(過剰なくらいに)
責任を持ちたいとも思いますから。

そして、やがては自分の綴る文章の中に
「皆さん」や「あなた」を使っていけるような生き方へ繋げてゆきたい。

主語のない、主体のない、
結果ばかりの毎日に陥らないために。

大切にしてゆきたい想いなんです。


最後までお読みいただきありがとうございます。毎日時間を積み重ねながら、この場所から多くの人の毎日に影響を与えるものを発信できたらと。みなさんの良き日々を願って。