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うしろの正面と正八面体と なぜかアンソールの話まで〜朝の瞑想メモ0117

こんにちわ、Kaloです。


昨年12月に長野県の諏訪に友人と行ったのですが、行った目的は、友人が夏に、ひょんなことから、そこにある石仏を見つけて一目惚れ(笑)。
「この石仏に会いに行きたい」と言い出したことがきっかけでした。

とはいえその後、お互いに忙しかったのもあって、なかなか会いに行けず。ちょっと忘れかけていた頃に、私の知人が、なんとその石仏に会いに行ってグループLINEにアップしたので、びっくり!それを見てすぐに友人に連絡し、そこで行く日程をちゃんと決めて、会いに行ったのでした。

こちら本名(笑)「万治の石仏」。諏訪大社をここに誘致した際にこの石で大鳥居を作ろうとして石工がノミを入れたらそこから血が流れたため、石工たちはこの石に阿弥陀如来を祀って石仏としたそう。岡本太郎が一目惚れして何度もこの石仏に会いにきていたというのも有名。だそうです。



「うしろの正面」の話


で。です。
今朝の瞑想でなぜか、この石仏が出てきました。
最初は誰かから?、そしてそのあとは本人から?彼の話を聞いていました。

(誰かから)
彼はこの土地の周辺の山を守っている。と。

川のせせらぎを毎日聴きながら、お日様をあびて。
ただそこに座っているけれど、とても幸せだから笑っている。


(本人から)
私(石仏)は孤独ではない。
毎日のようにみんなが会いにきてくれるから。

遠くから私を見つけて、私に会いにきてくれる。
私に話しかけ、私の周りを回って、私を触ってくれる。喜んでくれる。
お金を置いて行ってくれる(必要ないけど)。
私はみんなの願いを聞いたり、笑顔をみたりするのが楽しい。嬉しい。
その様子を見守ることができて、とても嬉しい。

そうしたら、今度は私が、石仏の中に入りました。

彼の中から見た世界。風景。
人々がやってきて、話しかけてくれる。

ああ、こんな感じか…。と思いながら、眺めていると
ふと、この川のせせらぎも、見えている自然の風景も、会いに来る人も
すべてが私なんだ。と漠然と感じた。


その時、誰かが私の顔を覗き込んだ。

その人の目には私と私の後ろにある背景が映っている。
私が見たことのない、絶対に見ることのできない後ろ側の世界。

そして私はその人を見る。
その人の背景、つまり後ろ側の世界も同時に見ている。

ああ、これは「合わせ鏡」なんだ。って思った。

目の前の誰かが、私の後ろ側の背景を目で映し撮り、
私はその誰かの後ろ側の背景を目で映し撮る。

「うしろの正面」

自分には見えないうしろの正面は相手の世界。
相手のうしろの正面は私の世界。

ああ、そうか。すべてが自分であるということ。何もかも。
遠くで起きていることも、近くで起きていることもすべてが自分。
この世界のすべてが。とわかった。



地球は正八面体ってところから


先日、最近また更新されるようになった松村潔さんのYouTubeを、流し聴きしていて、どこの回だったか?松村さんが
「シュタイナーは地球はまるくないって言っているんですよ。まるいって思っているなんて馬鹿じゃないの。って。彼が言うには地球は正八面体の形をしているらしいんですが…」というようなことを言っていたのが、やけに私の中に残っていて。

ああ、そういえばクリスタルの結晶もオクタヒドロン(正八面体)だった。なるほど、地球とクリスタルの形って同じ正八面体。ミクロとマクロのフラクタルな関係なんだなぁ。って。

あらためてクリスタルボウルは「地球の音」かも。って。




ジェームズ・アンソールの背景を知って


背景といえば。
昔、まだ高校生で美大予備校に通っていた10代後半の頃、私は多分、それまで、アートに出会ったこともないような子供で。アートを見て何かを感じるとか、心が揺さぶられる、とか、そんなことはほとんど経験したことがなかったので、今思えば予備校時代の2〜3年間は、短期集中で多くの作家の作品を見て、それを浴びることで、自分の核となる感性を形作っていた時期でした。

その頃に、ジェームズ・アンソールという作家の展覧会で「オステンドのカーニヴァル」という作品を見て、なぜか心が揺れ、忘れられなくなったのでした。それがなぜなのか。それは、その「揺れ」は、なんなのか。
当時インターネットもない時代です。多分パンフレットに載っていたアンソールの解説を読んだのだと思うのですが、パンフレットを購入した記憶はないので、その一部を展覧会のチラシか、どこかで読んだのだと思います。

確か、アンソールが生きていた当時、写実主義が全盛の美術界では肖像画のようなものが一般的で。彼はそうした権威ある美術界に挑戦的な若者だったため、ずいぶんと嫌がらせも受け、追放されたりもして、苦悩ののちに開き直って、目に見えているものではない世界、仮面をつけたカーニバルの絵を描き始めた。というようなことが書かれていたと思います。

それを読んで、アンソールのその人となりの背景に触れた時に、ああ、なるほど、だからこの作品。と思い、その背景も含めてさらに忘れられなくなったのですが、多分この体験は、目の前に見えているものの、ものではなくその背景を観た最初の体験だったと思います。

ネットからお借りしたアンソール『仮面の中の自画像』。
無表情で不気味な仮面の群衆のなかに、アンソール本人だ
けが唯一、素顔のままで描かれているという作品です。今
見返してみると、ある意味今の社会にも似て見えて(笑)
また違った見方ができて面白いなぁと思いました。


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そういえば、前回書いた記事で宮台さんがNEWS PICKSのWEEKLY OCHIAIという落合陽一さんの番組に出演されていた時に話された話を書きましたが、そのWEEKLY OCHIAIの中で「本来のアートは傷付けるものだ」ということを話されていました。「それを観て(聴いて、読んで)、僕は傷ついた。そうして、その傷から何かを受け取り、感じ、考えるためのもの。」つまり自己を深めてくれるものだということだと思います。

そして、その「傷」を持ち帰って、ぜひ仲間とその話をしてほしい。とも話されていました。


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話戻って、ネットでアンソールを検索していたら、当時私が行った展覧会の図録の内容をアップしてくれている方がいらっしゃったので(なんと1983年!!!)リンクを自分の備忘録として貼っておきます。ちなみに図録に書かれた解説文の一部もアップしてくれていました。私が読んだ解説のところとは違いましたが、今初めて読んで、それも面白かったです。


「1860年4月13日金曜日、ヴィーナスの日に私はオステンドの町に生まれた。ヴィーナスは、私が生を享けたその朝から、私に微笑を投げかけ、私の目をじっとみつめ、私も彼女の目をみつめた。青みがかったというか、緑がかったというか、なんと不思議な目であった事か。(中略)美のヴィーナスは海の泡で体を包み、その体からは芳しき海の香りがただよっていた。」

ジェームズ・アンソール



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と、バラバラで、とりとめのない話となり、長くなりましたが。
多分、こうした欠片はバラバラでも、きっとどこかで、何かが、
それこそ時空を超えて繋がっている。と思うので。



今日も読んでいただいてありがとうございます。
ではではまたー。


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Kalo
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