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華氏451度

学部の時は、数学科に在籍しながらも英語が好きだったので英米学科の授業に参加していました。

ネイティブの先生が英語で授業をするのですが、いろいろな映画を観て、その時々の時代背景を考察するだとか、舞台芸術について学ぶだとかそういう授業がたくさんありました。担当していた先生が好きだったのも手伝って、「映画を観る」ということがとても好きになりました。実際、学部2年の時は数学科の必修授業そこそこに、毎日メディアセンターに篭って映画ばかり観ていました。

そんな中で出会ったのが、フランソワ・トリュフォー監督の「華氏451」です。原作はレイ・ブラッドベリのSF小説「華氏451度」です。

映画を観てすごく気に入ったので、その後原作も読みました。

「華氏451」で描かれるのは、人々の思想管理の為に書物を読むことが禁じられた世界。本を読むことは禁忌とされ、本を所有していることが見つかれば捕まってしまうような世界です。

「華氏451」の内容の詳細はここでは触れないのですが、先日久しぶりに観返してみて思ったことをちょっと書いておこうと思います。

高校生や大学生(1~2年生)の時には、読書が好きでしょっちゅう本を読んでいたのだけれども、学部後半以降、特に大学院に入ってからは本当に読書の量が減ってしまったなと思いました。もちろん、研究の為に毎日論文は読むし、研究に関連した本は読むのだけれど、以前のように「気兼ねなく」小説を読んだり、自分の研究と全く関係ない異分野の内容を扱った本を読むことが少なくなってしまったなと感じました。ここでいう「気兼ねなく」とはその本を読んで「何かを得よう」とか「〜に役立ちそうだ」とかそういった類の感情抜きで純粋にその本を読んでみたいなという気持ちで読書をするということです。

理由を考えてみたら、やっぱり、なんか最近、こころに余裕がないのが原因ではないかというふうに思い当たりました。

将来のこととか考えると不安だし、研究しなきゃいけないし、バイトめんどくさいなとか、その反動で友達と遊びまくって罪悪感とか、やることやってなくてダメなやつだなとか、そんな感情が毎日あるからリラックスできていないんだなと。

いつもはそんな感情もうまく折り合いつけてプラスパワーに変えられているんだけど、どうもここ数週間はそういう気持ちの切り替えするのもめんどくさくなってしまっているんです。

困った、こまった。

そこで「華氏451」に話は戻るのですが、この映画ないし小説の主題は「考えること」にあるんじゃないかと個人的に思っていて、そう思ったら

ちゃんと自分は日々考えて生活しているのかなと思ったわけです。毎日先に書いたような悩みや感情はあるわけだけれども、それを解決したり、よい方向に持っていくために頭を使っているのかと。あるいはそうでなくても、しっかり考えた上で日々の行動をしているのかと。

残念だけどぜったいそんなに考えて日々過ごせていないなと。そんなにいちいち考えてどうするんだという思いももちろんあるわけだけど、この映画を観て、「考える」ってのはきっと高尚な行為で、考えないでいるのはきっと何かを失いかねない行為なのかなと少し思ったりしました。




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