ヘブライ1:1-6

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。いったい神は、かつて天使のだれに、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われ、更にまた、
「わたしは彼の父となり、
彼はわたしの子となる」
と言われたでしょうか。更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、
「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」
と言われました。

クリスマスおめでとうございます。
昨日与った日中のミサの第二朗読の感想を今日は書きたいと思います。
カトリック教会では、クリスマスのミサは3つ(夜半・早朝・日中)行われ、それぞれ別の聖書の箇所を読みます。クリスマスに教会で読む聖書の箇所は、まさにイエス様の誕生を描いたルカ福音書(夜半・早朝)と、イエス様の存在を天地創造の前から描いたヨハネ福音書(日中)の2つがあります。私は今年は、日中しか行けませんでしたが…。
しかし、あまり第一朗読や第二朗読の方に目を向けていなかったな、という感があります。
この箇所を読んだ後に、教会ではヨハネ福音書冒頭(ヨハ1:1-18)の「初めに言(ことば)があった」から始まる有名な箇所を読むのですが、この箇所は、そのヨハネ福音書の箇所と似ているな、と思いました。というのは、イエス様の存在を歴史の上で表しているからです。神が預言者を通して語った、というのは、キリスト教から見た旧約時代の歴史観の表れで、御子が私たちに語るというのは、キリスト教から見た新約時代の歴史観を表しています。
教会は、日中のミサを通して、イエス様の誕生を単に一つの歴史的事実として見させるのではなく、長い歴史の中で私たちに見させようとしている気がします。