1.12 「技術」という言葉を乱用している理由

(日記です。)

この日記においては、「技術」という言葉を乱用していると思うし、今後も乱用していく予定である。

自分は、一見技術のように見えないものにもこの言葉を多用していて、たとえば、「よく眠る技術」とか、「人と仲良くなる技術」とか、「朝起きる技術」とか、なんでもかんでも技術という名詞によってくくっている。

それにはもちろん理由があって、技術という言葉を付けることで、「それらは、後天的な努力によって獲得可能なものである」ということを、強調したいからである。

 人はうっかりしていると、思考の癖として、「能力・性格の違いは才能だから考えても仕方ない。変わろうとすることは無駄」という方面に移りがちである。たとえば、絵の美味さとか、歌の巧さとか、頭の良さとか、そういうものについて考えるとき、才能を過剰に評価する傾向にある。

 けれど、そのような能力の違いを「技術を持っているか否か」という視点で見ることで、「その技術を”どうやって”獲得していけばいいか」というような、ちょっとポジティブな方面に思考を変えることが出来る。

 だから、チームマネジメントだったり、コーチングだったり、人間心理だったり、もともとの人間の性格が強く影響されそうな分野についても、「技術力」と考えていく。優しさも技術だし、頼りがいのある人間も技術力が高いという見方をする。他人に対して思いやりを持つことも「技術」だ。もともと思いやりがあるのでなく、思いやりをもつ方法を学び、技術として身につけた結果と捉える。

もともとの性質の影響よりも、後天的に身に着けた技術による影響を高く評価する。

基本的にポジティブな考え方だと思う。能力はすべて「技術」で、だから、すべて後天的に獲得可能だ。生まれながら性質はたしかにあるかもしれない。けれど、それが、どのように外部で能力として現れるかは後天的な技術力によって、いくらでもまかなえるものだと信じている。

本当だろうか? どのような能力も、後天的な技術として身に着けられる、そんなことはあるのだろうか。

正直なところわからない。わからないけれど、技術と考えるなどして、獲得可能だというイメージをもっていないと、身に付けられる可能性は格段に下がる。だから無理にでもこう考えて、技術であると言う。

そんな感じに生きていきたいが、気を抜くと技術という言葉を使うのを忘れてしまうので、文章にして残しておきました。

以上です。

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