『ババヤガの夜』登場人物の名前に隠されたトリックとその考察
文藝2020秋号掲載の『ババヤガの夜』。
むさぼるように一気読みし、おずおずと2周目へ。1周目で抱いた違和感や仕掛けの正体がわかり、肌が粟立つ。とりわけ、登場人物の名前に隠されたトリックと示唆は秀逸だ。以下盛大なネタバレになるので、未読の方はご注意ください。
ヤクザの娘「内樹尚子」
主人公新道依子が護衛を任される、ヤクザの娘「内樹尚子」。彼女の名前の読みが「ナイキショウコ」だと判明するのは物語の終盤だ。ここで読者は、この名前に隠されたいくつかのトリック・ミスリードに気づくことになる。ここではその内容の整理と考察を述べていきたい。
イニシャル「N」のネックレス
尚子が英会話教室をさぼり、依子と喫茶店に入るシーンがある。会話の中で、尚子はいつも身に着けている母親のお下がりネックレスについて言及するのだが、以下のように描写されている。
尚子は人差し指でNのイニシャルのネックレスをつ、と引っ張った。
この一文は、尚子を「ナオコ」と読ませるためのミスリードなのではないかと思っている。私はこれで、なんとなくあやふやだった読みが「ナオコ」に固定されてしまった。そして、「内樹」はおそらく一般的には「ウチキ」と読むだろうから、「ウチキナオコ」と認識した。しかし実際は、「ナイキショウコ」なのである。この名前の読みから考えられることは何だろうか。
家父長制の支配と脱却
「N」は内樹尚子のイニシャルではなく、おそらくその母のイニシャルだ(作中に母の名前は出てこない)。それと同時に、姓名である「内樹(ナイキ)」のイニシャルでもある。尚子はヤクザの組長である父内樹(以下内樹)から様々な支配を受けていたが、結婚するまでつけ続けていることを強要された「N」のネックレスはその象徴だろう。
尚子は内樹に娘として、一人の人間として扱われることはない。尚子の初登場シーンは、依子の目に「人形」や「マネキン」のように映り、内樹は子を慈しむというより「座敷犬」のように肩を撫でる。また、尚子の婚約者である宇田川に対する失態の落とし前として「これ(尚子)を住み込みの家政婦として」派遣しようと提案し、その一方で過去に逃げられた妻と娘を重ね合わせて性的虐待を繰り返している。更には、尚子が結婚してこの家から逃れたとして、残忍な婚約者宇田川のもとで同じような(あるいはもっと酷い)目に遭わされることが暗に示されている。
ここまでの苛烈な支配と暴力を行使する「家」ばかりではなかっただろうが、かつて日本では多かれ少なかれこのような家父長制度が表立って機能し、女性が愛玩品や交渉の道具、人間以下として扱われていた場面はあっただろう。それは現代社会にも未だに影響している。しかも、それに対して声を上げたり対抗する術はない。それは身体的に抗することが難しいだけではなく、お華やお茶、料理等だけを習い、父が喋っているときには余計な口を挟まないという、尚子の言うところの「教養」によるものだろう。内樹尚子は前時代的な「良き女性像」を体現しているが、それを強固にする証拠として、作者が「ウチキナオコ」に「内気な御子」という意味を内包させたのだと主張するのは飛躍しすぎだろうか。女性は、内気で、子供のように抗う力のない無力な存在であることが、男性支配社会では都合がよかったのではないか。
もっとも、この作品が悲劇に満ちたメロドラマで終わらないのは、尚子が依子とともにこの支配から脱却し、自分を取り戻す(=ナイキショウコになる)からだ。望む生き方を求めて、彼女たちのシスターフッドは覚醒する。
「正」は「ショウ」か「タダシ」か
尚子と依子は、内樹を殺した。追手から逃れるため、身分を偽り場所を転々としながら暮らすのだが、途中そのような生活の綻びを恐れ、全ての貯金を使って戸籍を買う。女性二人分の用意が難しく、「松本芳子」と「斉藤正」の男女一人ずつの戸籍だ。この時、尚子は進んで男性である「斉藤正」を選び、「サイトウショウ」と名乗って生活していたことが終盤明かされる。
ここで1つ疑問が浮かぶ。通常戸籍に読み仮名は記載されないが、戸籍を売却する前の「斉藤正」はどのように呼ばれていたのか、ということだ。私は、おそらく「ショウ」ではないと思う。この点については憶測でしかないのだが、しかし物語の序盤に「正」には複数の読み方があるという可能性(かつミスリード)が提示されている(詳細は物語で確認してほしい)。また、戸籍を購入したのが現在から35年前という設定から、「ショウ」という現代的な読みよりも、やや古風な、例えば「タダシ」というような読み方が一般的だったのではないだろうか。
尚子が、自分の名前に近い「ショウ」を名乗ることは自然な選択にも思えるが、抑圧されていた自己回復の意味合いも含まれているように思える。尚子は、読み手から「ウチキナオコ」と見なされていたが、依子との逃亡生活によって生きる術を獲得し、容姿も男性的になっていく。「ショウ」を名乗ることは、当時のメインストリームであっただろう「タダシ」を名乗らないことによるリスクをとってでも大切にしたい自己があり、「内気な御子」であったを自分を捨てる選択ではないだろうか。
尚子と依子は、最後のシーンでようやく自分のなりたいものになれるという希望を口にする。しかし、追手との戦いによって傷を負っている二人に、それとなく死の影も感じられる。彼女たちが命懸けで掴みとった、女性が「なりたいものになりたい」と言える世界を、維持し、発展させるのは私たちなのかもしれない、という気持ちにさせられる。
あー自分の文章力の低さや思考の浅さが恨めしい・・・この作品、もう少し深堀できるはずです。もちろん難しいこと抜きにして、エンタメとしても面白かったです・・・。
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