金子は死に場所を求めにやって来たのだ

どうも皆さんこんばんは、また物騒なタイトルで申し訳ありませんがフォックストロットです。

今日(7/30)、ファイターズの金子弌大はBu戦の9回、7−1でリードの状況から登板し、ジョーンズに2ランを打たれました。
それだけでは無く、今シーズンも金子は割と不安定な投球を続けており、方々から「栗山監督はなぜ金子をあんな中途半端な起用法で使うのか」
「金子の本来の役割は先発のはずだ、こんなことは許されない」
「ローテーション任せないからこんなことになるんだ」
などなど、色々な疑問が聞こえて来ます。

ですが、僕としては金子はこれでいいと、これで正解なのだと確信しています。
今日はその理由をつらつらと綴っていきたいな、と思っていますのでよろしくお願いします。

よく言われるのが、「金子はこんな投手じゃ無い、使い方が悪い」ですが、僕からすれば「いや、今の金子は見たまんまこんなもんでしょう、使い方もクソも無いわ」って感じです。
そもそも、皆さん金子弌大を何だと思ってらっしゃるんですかね。
確かに彼は現役でも群を抜く実績の持ち主、腐ってもかつての沢村賞投手ですが、すでに36歳、キャリアの最晩年なのは間違いない。いかに現代のスポーツ選手の選手寿命が伸びているとはいえ、そうだれでも易々と40歳まで現役を続けられるわけでは当然ありませんよ。
ましてや彼はプロ生活14年ですでに1935イニングを消化し、多い年は223イニングを稼ぐ年もあったわけです。僕は常々言っていますけど、投手の肩肘は消耗品ですから、これだけイニングを投げて来た投手が36歳になって、かつての圧倒的な支配力は無くしてしまっても、こうやって一軍レベルの投球クオリティを保っていることの方が奇跡に近いと言ってもいい。
そういう投手に対して、圧倒的な全盛期の投球を重ねて「起用法が違っている」というのは些か現状の把握を間違っているのでは無いでしょうか。
どんな選手でも、それこそイチローや松井の様なレジェンドクラスの選手でも当然の様に老いからは逃れられないわけです。
いつまでも全盛期の活躍をイメージして、それを求めて期待をかけていくのはファンであろうと解説者であろうとずいぶん残酷なことをするじゃ無いか、と思うのです。それができればとうにやっていますし、何よりもオリックス球団を出る様なことにはならなかったでしょう。本来彼ほどの実績があればオリックス一筋で引退試合やセレモニーをやって骨を埋めてしかるべきです。しかし彼は新たな自分の姿を見つけに外へ出ることを選んだ。その意味を僕らはもう一度噛み締めるべきなのでは?
「本来先発なんだから、そこで使えばまだやれる」というのも同様に、金子の覚悟を甘く見ていると思うのです。繰り返しになりますが、これだけ投げて来た投手なんですよ。肩肘のコンディション、疲労の回復サイクル、そう言ったフィジカルの衰えは確実にあるわけです。こう言ってはもちろん失礼なんですが、選手としては老い先短い、しかも負担の大きい投手なんです。それを引退も視野に入ってくる様なベテランになってもまだ先発で長いイニングを食わせろと?長いイニングを投げるというのは決して楽なことでは無い。今年すでに5勝を上げている、同じ元沢村賞右腕、楽天の涌井投手は34歳ですが、全盛期の平均投球回はおよそ8です。対して去年の平均投球回は5.5。今年もほぼ同じです。衰えとはこういうものです。やりたくてもできなくなる。2歳年下の涌井ですらこうなんですよ。
ましてや、金子に数字を上げさせるためにとコンディションを重視して、一度投げた後の回復を待って、などと一つ一つ丁寧に、細心の注意を払っていたらとてもじゃ無いですがローテーションになんて組み込めない、そんな場合だってあるわけです。
確かに去年、金子は後半にローテ格に繰り上がりましたが、それも後半戦のみ、相性の良い相手のみに限ってです。去年の例を持ってして、今年これから一年間様々なチームとの対戦ローテを回れるとは限らないわけですよ。

そして何よりも皆さんにお伺いしたいのは、皆さんも認めるこれだけの実績と経験、引き出しを持ってるはずの選手が、先発を務めた上での長い回じゃ無いとその力を発揮できない不器用な選手なのだと、本当にそうお思いですか、ということです。
今の金子には、先発でバリバリやっていた頃の圧倒的な奪三振能力は確かにもう無いでしょう。直球の球威も、変化球のキレも、コントロールも、全盛期からは衰えが見える今の状態で、彼は現役を少しでも長くやりたい。すでに全盛期の投球はフィジカル的に難しい状況であるにもかかわらず、今度は新たな環境でこうやって短い回をどうやって投げるかというコマンドを会得しようとしている。持っている技術と経験を練り上げて、今までのプロ生活でやってこなかったことに適応しようとしている。あの金子千尋(あえて)にそれができない、不可能であると思いますか?僕はそんなことはないはずだ、と思います。

さて、この話も終わりに近づいて来ました。
彼は本来投げたがりだと聞いていますし、自分の意思で便利屋をやっているという話もあります。それが真実であるとすれば、結果の思う様に出ない中、彼がそこにこだわる意味とは何でしょうか?
もちろん「言われればどこでも投げる」という言葉の通り、先発と言われないからこのリリーフという所で働いているんだという話もありましょう。ですが僕はそうは思わないのです。金子千尋がオリックスを飛び出して、金子弌大になって飛び込んできたこのファイターズで何をなそうというのか。
…「死に場所」。僕はこの文章のタイトルをそう名付けました。
オリックスで華々しく最後を飾っても良かったはずの金子がこのファイターズというチームに来てまで求めたのは、華々しい飾られた最後よりも、彼が長い年月をプロとして戦ったそのマウンドではないでしょうか。そして何より、この若いチームで未来ある選手たちの生きた手本となり、その背中で投手とはどうあるかを示すことではないでしょうか。オリックスでどうしてそれができなかったのか、それは僕らには到底わかり得ません。でも、もし、ここファイターズでそれを示してくれようとしているのなら、これほど嬉しいことはない。若手の働く場所を邪魔しない様に、尚且つ自分がチームに役立てる様に。自分の背中を後輩が見て、少しでも何かを学べるように。たとえ慣れないリリーフのマウンドであろうと、彼は投手。そういうふうに投げていたいんじゃなかろうか。それが彼の生きる道で、それが彼の生き様だからこそ。

もし、もし仮にそうなんだとしたら、彼が今現在リリーフを主戦場としていること、主に敗戦処理や点差のついた場面で投げていること、たとえ失点しようともまた同じ様に投げ続けていること、それら全てに合点が行くような、僕はそんな気がするのですよ。
そう、僕らは受け入れるべきなんです。

今、金子弌大が選んだステージがこの場所なんだと。そこにあるありのままが彼の「真の姿」であり、そのありのままを容赦無く曝け出していくその背中こそが、金子弌大のプライド、生き様なのだと。僕らがイメージするような「沢村賞右腕・金子千尋」ではなく、彼自身が選んだ彼の姿、「投手・金子弌大」がそこにあるのだと。

僕はそう思って金子弌大の献身に今日もまた一つ心を打たれるのです。
金子弌大はいつだって、投手だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?