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「対話から逃げて」

5/19 早朝礼拝原稿

おはようございます。5/19の早朝礼拝に招いてくださったC-WEEKの実行委員会の皆さん、ならびに今日お越しくださいました、一人一人に感謝します。私は20の西川千晴です。2019年の10月に洗礼を受けたばかりのまだまだひよっ子の私が皆さんの前でC-WEEKの早朝礼拝でお話しさせて頂くのは、ものすごく場違いに感じますが、これもイエス様の与えてくれたよい機会だと思ってお話しさせていただこうと思います。 

 前置きが長くなってしまいましたが…今年度のC-WEEKのテーマは「対話を必要とするとき」です。コロナ渦で対面での対話の機会が減りつつある中このテーマを考えるのは本当に重要な営みなのではないかと思っています。

 自分の意思を、自分の考えを誠意を込めて相手に伝える。対話をすること。それは自分の価値観とあ知恵の価値観のすり合わせであり、お互いの安寧の地を探す本当に尊い営みです。対話は向き合って話す事、お互いの認識のズレをすり合わせ、共有していく事…。時にキリスト教では「祈り」こそ神様との「対話」であると言われています。祈ることは真摯に自分と向き合うことであり、自分の価値観を、また神様の価値観を確認することなのかもしれません。さて、このC-WEEK期間中に皆さんはさまざまな教授や生徒から「対話」の素晴らしさ、「対話」の難しさ、そもそも「対話」とは一体なんなのかを耳にしていく事だと思います。

 私もそれに倣って対話について語ろうと思います。皆さん、心に留めておいてください。あなたは「対話」から逃げてもいいと言う事を。

 昔話をしますね。私には本当に大事にしたい人がいました。けれども、私とその人は価値観がまるっきり違っていました。というのも私たちの育ちの違いが由縁でした。私は父母兄姉私の5人家族でした。18歳になるまでに兄と母が失踪、そして大学入学が決まった時に父に「一人で生きてくれ」と言われて実家を放り出されました。この時に5人中3人、父母兄が失踪しました。学費には足りないお金を持って実家も失って東京にやってきた18歳の私は傷ついてボロボロでした。学費のためにバイトに明け暮れ、勉学に明け暮れ、友人の前で無理に笑う日々に癒しはなく、20歳の誕生日、5月19日に両親が離婚した時その心は決壊してしまいました。痛みがなんなのかわからないぐらい痛くて苦しくて仕方なかった。ちょうどその時助けてくれた人がいました。その人がイエス様の存在を明かししてくれ、私はイエス様と出会う事が出来ました。

 その人は深く私に寄り添おうとしてくれましたが、決定的な違いがありました。家族を失った私と、今もなお家族と円満なその人は決定的にすり合わせられない価値観がありました。その人は私の心の傷を軽視していたし、家族を大事に思う気持ちや、人とどう関わりたいかということ、どうしても受け入れられないこと、変わるのに時間がかかることへの理解の違いで、私たちはお互いに擦り切れていくようになりました。何度も話し合い、何度も祈り合い、それでも、うまくいかなかった。

 私は何度もその人との関係の中で「神様は乗り越えられない試練は与えないんだ」と思ったし「この葛藤を経て、イエス様は私に何かを伝えようとしているんだ」と言い聞かせたし「この関係が神様を証しするから」とつなぎとめるのに必死になっていました。けど、いとも簡単にこの関係は崩れてしまい、私はそれで…本当に深く傷つきました。

 私たちは「対話」をしていなかったんだろうか?決してそうじゃないと思います。でも、ただ、どうしたって、どうしようもいかないことがあるというだけです。当てはまらないパズルのピースのように、どうしたってはまらない、しっくりこない関係が、そんな二人がいる、そんな人々が、そんな集団が、そんな不甲斐なさがこの世の中には溢れている。

 対話をしよう、対話から逃げないで、対話はいいものという言説は世の中に溢れています。実際「対話」は戦争の対義語だと私は思っています、平和の道筋だと。けれど、皆さん、どうしたって理解し合えない人がいますよ。どれだけ自分が言っても伝わらなかった相手が、他人のたった一言であっさり理解してしまうことも。自分とその人の関係では何を言っても無駄なことも。分かり合えても立場上合意できないことも。納得できないぐらい理不尽な事が、あります。

 そういう時に、どうかお願いです。神様がくれたその両脚で、逃げろ!逃げていい!!その対話であなたがボロボロになるなら、一度離れていい、固着する必要なんてない、対話をするのは今じゃなくてもいい。多様性っていうのは、いろんな国籍を持った人がいることじゃない、いろんな価値観を有した人が当たり前に存在し、お互いを潰し合わないで済むことじゃないでしょうか?だから、その人がその考えを持っていることを、その価値観を持っている事を、どれほど腑が煮えくり返ってもいい、許せなくてもいい、でも無理をして相手を変えようとしなくてもいい。人は変わりません、人の手では変わりません。人の心を返るのは神様だから、私たちではない。私たちでは無力だから。でもどうしても、どうしてもそれでは納得できない、あの人の価値観があのままなことが、あの人が変わらない事が許せないという人にはこの聖句を送ります。少し長いけれど、どうか聞いてください。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。 働く者は労苦して何の益を得よう。 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。」 伝道者の書 3:1-12

 イエス様は時に叶って、その人に最適な時期に物事を叶えます。殺すのに、泣くのに、抱擁するのに、それを止める時さえ、愛するのにも、最適な"時"があります。「ああ、この人はどうしたって私じゃ変えられない、私の言葉じゃ聞いてくれない」そう思った時、対話を無理に押しつ進めお互いにすり潰しあうのではなく「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と考えてみることはできないだろうか?人によってはそれを「対話の放棄」と言うのかもしれないけれど、私はそれを「神様に委ねた」それだけのことだと、思っています。放棄ではなく、最適な時が巡り合うのを信じて待つだけ。

 どうかこの礼拝から歩き去る時、私のこの声があなたに残りますように。「キミはその人とわかり合おうとしなくていい」「キミはその人を無理に愛そうとしなくていい」「キミは対話から逃げてもいい」というこの声が。もしも、大学5年生の就活もしていない金髪のちんちくりんの言葉なんて信じられない、と言う方がいらっしゃったら私の言葉の代わりにソロモン王の言葉をどうか胸に留めてください。

「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを」

 だからキミは、対話から逃げたっていいんだ。

 君が今日を感謝できるためになら。

 その代わり神様が時に叶って美しい奇跡を起こしてくださるから。


だから君は、逃げていい。


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