悩みを奪うのは優しさではない
どうもキツネカオリです。
今回は、健康な人ほどメンヘラには近づかない理由について書いてみようと思います。
病んでる人にわざわざ近付こうとする人もまた病んでいる、もしくは病んでいくという現象。
弱っているひとがいるとなにか助けたい気持ちになるときもありますが、「人を救う」だなんておこがましいよなと最近は思う。
「救える」と思ってしまうから、自分が救えなかったときに自己嫌悪に陥る。
そもそも、本人が元気になるのは本人の力であって、他人がどうこうできるなどと考えるのはやっぱり傲慢だ。
たとえばわたしの場合「死にたい」と相談してくる人がいたら、どんな状況でなにが死にたい理由になっているのかという要素を分解する質問を投げることならできるだろう。
ひとに話すこと、言語化することで情報整理ができて、頭の中がごちゃごちゃになってぐるぐる同じことで無駄に悩むことを回避することができるし、その段階で前向きになれるひとならきっかけにはなれるとおもう。
そんなかんじで、公式ラインをゴミ箱やメモ帳として好きに使ってもらう場にしたところ、日々いろんな悩み事やひとりごとのようなものが届くようになった。
基本的に返信しないけど全て既読している。時間のあるときはきまぐれに返信したりもするし、わたしから最近食べた美味しかったものをみんなに聞くなどしてクローズな情報収集とコミュニケーションの場としてお互いに都合よく活用できればと思っている。
なんとなく虚無なときとか使ってみてね。
余ってるリソースなら分けることができるけど、それだけだとまだまだ死にたい死にたいが止まらないときは、自分にはなにもできないので、距離を置くようになった。
それ以上になると、自分を削って与えることになるし、与えた結果、「欲しいと強請れば得られる」ことに味をしめてしまったメンヘラは、治るどころか悪化していく習性がある。
わたしは過去に病んでいてどん底状態の人を救おうとして、自分の持っているものをその人の役に立てるであろうものに次々に変換していたことがある。
結果、働き者だったその人はあらゆることに関してわたしに依存するようになり、わたし自身も、どんどん貧弱になっていくその人を守ることで頭がいっぱいになっていった。
周りに相談して「それはおかしい」「その人はひどい」と言われる度に「この人たちはなにもわかってくれない」「わたしだけがあの人を救えるんだ」とアドバイスをされるたびに心を閉ざしてなにも話さなくなっていった。
未熟な者同士が仲良くなると生まれる、いわゆる「共依存」のよくある構図。DVやモラハラから抜け出せない人間はみんなこの心理状態なのだとおもう。
自分が信じているものを裏切りたくない気持ちばかり加速し、自分自身もう随分削れていたのにさらに無理を重ねていた。
苦しいのに、辞められない。
意地になっていた。
だけどふとひとりになって冷静になったとき、急にバカらしくなって、ギブアップした。
その後のその人は、自力でなんだかんだ生きていたみたいなので、「この人は自分がいないとダメなんだ」という自己肯定感を補完するためにわたしもその人を利用していたことに気が付いた。
この出来事を振り返ると、やはり自分のエゴで他人を救おうなどと考えることは傲慢だとおもう。最終的に本人が動かなければ、どんな問題だって解決しない。
誰かが何かを頼ってきたら、自分が無理なくできるとこまでなら手伝えればとおもうけれど、それでも無理そうならそれはその人が超えるべき試練だ。
悩みを片っ端から奪うのは優しさではない。相手のやるべきことを横取りしても相手のためにならない。
そして、弱っている人にわざわざ近付く人間もまた、どこか弱っている部分がある。
弱っているときにやたら親切に手を差し伸べてくる人間がいたら「この人は何が目的なのか」を冷静に考えてみてもいいかもしれない。
2019.07.28 キツネカオリ
サポートするとキツネカオリを育成することができます。 「たまごっち!」みたいなもんです。