見返りを求めるほど関係は長続きしない話

ここ5年くらいで気がついたこと。


見返りを求めてくる人から何かを受け取ると、どうも具合が悪くなるなあ、というのはずっと前から感じていた。


「〜してあげる」という態度の中には「だから、それ相応のなにかを寄越せ」が、いつのまにか含まれてしまっている場合がほとんどだから。


「してあげる」のなかには、「本当はしたくないこともあるけど、あなたのために無理してやってあげている」という押し付けが含まれてくる。


自分を思ってなにかをしてくれることは、ありがたいこと。それは間違いない。


でも、その中に、ほんとうに欲しいものが含まれていなかったら?


ありがた迷惑だったら?


欲しくないものを与えられて、その気持ちに一切感謝をしていないというわけではないけれど、「このくらいもらわないと不満」という気持ちに、「ごめんね、返すね」と、こちらも無理して返していくと、自分自身もどんどん「やりたくないこと」に侵食されることになる。


ほんとうに健全な関係を築きたい場合は「してあげる」のではなく「自分がしたいからやった」という価値観が必要。どちらかが執着していると、バランスが崩れる。


「したこと」そのものに「した時点」で満足できる範囲のことだけを相手に与える。


「してもらって当たり前だと思うなよ」というようなことをしつこく言う人って、どこかで「見返りがあること」を当たり前だと思っている。


与えた側が偉くて、与えられたほうが下だと思っている。そして「返すことが常識」とも思っている。


きっと間違ってはいないのだけど
本質的ではないのでは、とわたしは思う。


与えたものに、相手が心から感謝すれば、なんとか何かの形で返そうとするだろう。


それが返ってこなかったということは、その人にとってはそんなに欲しいものではなかったもの、ということになる。


その事実を信じたくない人が、「あいつは馬鹿だ」「恩知らず」などの言葉で攻撃をするようになるのだろう。


これはどうやら社会的な地位を手にした人ほど陥りやすいようで、「自分がその人にとって価値がなかった事実」を認めたくないが故に嫌な言葉をかけてしまうのだろう。


それから、社会的な地位のある人は、気を使われることが当たり前の世界で生きているからという理由もある。彼らの周りにいる人たちにとっては、彼らの機嫌を損ねることはリスクなので、本当のことなんてとても伝えられないのだ。


何に価値を感じるのかは、人それぞれ違ってくる。「絶対にこれが正解」というものなんて、きっとない。


わたしの場合のはなしをしてみる。

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