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[ヘアケアの歴史]長い黒髪・日本髪の価値観が変化した時代

ヘアケアやヘアスタイルの歴史を調べるようになったきっかけは、現在の美容技術や美容業界の常識を培った経緯を知ることで、未来の「美しさ」を考えるヒントになると思ったからです。

洗髪剤の成分や方法、頻度を調べて行くと、実は明治から昭和初期まであまり変化がありません。

しかし美意識という側面からは、平安時代から続く“長い黒髪”が日本人女性の美の象徴という概念が変わっていった、とても興味深い時期です。

女性の価値観や美意識は、どのように変わっていったのでしょう。紐解いてみます。

日本が大きく変化した、明治から昭和初期

日本は明治から昭和初期にかけて近代化を達成し、富国強兵を目指し帝国主義的な国家に進んでいきました。
その変化を当時のできごと・雑誌から考察します。

明治元年(1868):江戸城開場 明治天皇が東京へ

明治4年(1871):散髪脱刀令
髷(まげ)を結わず散髪をしてもいい。士族でも帯刀しなくてもいいという布告です。
男性の断髪・洋服姿が多くなり、この「散髪脱刀令」布告により男性のように断髪する女性が現れます。
同年に福沢諭吉「学問のすすめ」が発刊されました。

明治5年(1871):女子断髪禁止令4月5日
断髪する女性に世論が猛反発し、東京府が女性はみだりに髪を切ってはいけないという「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を出しました。この頃は長い黒髪で結った日本髪が女性らしさの象徴という価値観が根強く浸透していました。

ちなみに、4月5日は「ヘアカットの日」です。断髪禁止令に反発し、長い黒髪・日本髪文化の古い価値観と戦った女性たちがいたことにちなんでいます。

同年:学制公布
全ての国民(男女)に就学をさせることを求めた法令。全国に小学校を設立することにより近代化を図りました。

しかし、当時の一般の国民には学校を設立維持する負担も大変でした。
近代教育と今までの伝統的な思想や社会意識にも強い抵抗(女子断髪禁止令なども)があり、これに反対する「学制一揆(1873)」が起こるなど激動の時代です。

女性の就学が後の服装や髪型を変えるきっかけにもなります。

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出典:ハイカラ ニッポン

明治16年(1883):鹿鳴館ができる
国賓や海外の外交官を接待するため、鹿鳴館が東京日比谷に建設されました。
鹿鳴館ができたことで女性も洋装が認められました。

束髪会

出典:山星書店 浮世絵 在庫目録 名古屋

明治18年(1885):「婦人束髪会(ふじんそくはつかい)」が発足
今までの長い黒髪・日本髪が「不衛生、不経済、不便」であること理由に、婦人束髪会はその全てを解消するヘアスタイルとして束髪(三つ編みのアレンジ)を提唱。着物にも洋服にも似合う「三つ編み」を使ったアップスタイルで束髪啓蒙活動を始めました。
東京女子師範学校の教員や女子生徒が束髪を採用しました。三つ編みスタイルの女優さん、朝ドラでよく見かけますね。あれです!
これにより女学校を中心に束髪が広まっていきます。

しかし、当時の多くの日本女性はまだ急に西欧スタイルに挑戦することはできませんでした。鹿鳴館の舞踏会に出るような上流階級の婦人や令嬢など一部を除き、髷を結うための「長い黒髪が美しい」という価値観は根強く残っていました。

明治33年(1900):雑誌「明星」が創刊 
「明星」に作品を投稿していた与謝野晶子は翌年に歌集「みだれ髪」を発行。ストレートな愛情表現は慎ましく生きることを女性に求めていた当時の道徳感には受け入れられないものでした。一方で今までの保守的な論陣を非難し新しい文学であると評価するなど、世論をわかせました。この騒ぎが無名の女性歌人を文壇のスターにし、若い読者を魅了。

明治40〜43年(1907〜1910):雑誌「婦人世界」に見る当時の潮流
雑誌「婦人世界」には「近来は束髪が流行している」、束髪を衛生面から推奨しているが「油も付けずに束ねて置くと、それだから自然と髪が縮れて赤くなる」とあります。
要約すると、束髪は衛生的だが髪が傷むと書かれています。

別の記事では「日本人は、緑髪漆の如く丈に余るを美としてあります」と、長い黒髪を称賛しています。
また、黒髪を守るために、石鹸で洗うと髪が赤くなり、切れ毛やうねりが出やすくなるために麩海苔やうどん粉、鶏卵で洗うことを勧めています。そして日本髪を結うことで長い黒髪が保たてると説かれています。

つまり、流行している束髪は衛生的だが髪が傷むとされ、不衛生になるが日本髪は黒く長い髪を保つヘアスタイルで、日本女性にとって重要だとされていたことが分かります。

また、雑誌「婦人世界」の女学生の記事では、
「今の婦人は学校に通うと、袴を穿いたり、或いは準西洋服というような服装をし、体操もし、島田の高髷では活発な運動ができないので、この場合は束髪にしなければなりません」と書かれています。
このように若年層には束髪が推奨され、また日本髪には用いないリボンなどの流行りもみられます。

明治44年(1905):雑誌「青鞜」が創刊
平塚らいてうが雑誌「青鞜」が創刊した際に自ら寄せた文章「元始、女性は太陽であった。真心の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝き、病人のような蒼白い顔の月である」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉として有名です。このような黎明期だったからこそ、長い黒髪・日本髪から開放されたいと願う女性たちが行動し、その文化を変えていったのでしょう。

日本女性に求められた“長い黒髪が美しい”という価値観。自分は女性のヘアスタイルは明治維新から徐々に変わったと思っていましたが、簡単には変わらなかった事実が正直驚きでした。考えてみると千年以上続いた美意識を変えることは容易ではないですね。

その後、長い黒髪・日本髪文化がついに終焉を迎えたのは、束髪に慣れ親しんだ女学生たちが大人になってからです。

参考文献:「黒髪と清潔:明治中期~大正にかけての婦人衛生雑誌から読み解く黒髪の変遷」横山友子著

▼ ヘアケアの歴史はこちら

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この記事は 永森博明 が書きました。


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