生死をさまよう

生きてたって何もないから死にたいって言う人の気持ちが分かるような気はするけど

分からない、難しいです

死にたいと思ったことがないわけじゃない、
みんなと同じようにあります

これを見た疲れてる人は
「自分ほどじゃないだろ」と心のうちでチラッと思うのが性なんじゃないでしょうか

それは流石に捻くれ過ぎか。

それか「死にたいと思ったことがないと言ってるマッチョなあいつはどうなんだ」

死にたいと思ったことがないと豪語している人は、自分の気持ちにどこか鈍感な人なだけです

なにかを感じたときに「これが死にたい気持か」と思う人と「どこか遠くに行きたいだけかも」と思う人がいる
それだけの差なんじゃないでしょうか

自分のほうが、自分のほうがと思っている人とは何か壁を感じます

私は、個人的には
死ぬときの痛いのがいやだからと
小さい脳みそで知りたいことが沢山あるから
取り敢えず生きていたいと思っています
今のところ

平凡な理由なんじゃないでしょうか

欲望って際限がないし知りたいことって切りが無いから死ねるならいつでも死にたい、って反論されたとき、なんて返したらいいか分からなかったです。

私も欲望って際限がないし知りたいことってきりがないと思います
でも、それと死にたいは、関係あるのかないのか、どうなのか
小さい頃、知りたいことが沢山あって、その重圧に押しつぶされそうになって、ずらっと並んだ背の高い書棚を見上げて図書館で涙が出たことがあります。

死にたいとは思えない。少なくとも知れるだけ知って、誰かと話して、分かり合おうとして、その過程を私は尊いと思う。尊いというのは、その過程を私は、「無かったら無かったで別にいい」とはまだ思えない貴重なものだと思っているということです。
あるいは、尊いというか、そうしなければ自分が仕方なく生きることへの圧力に耐えられない。

「言葉にできない」と言う台詞があります。実は、9割が自分がよく分かっていないことの言い訳として使われてるんじゃないかと思います。なぜなら自分がそうやって言うときの9割がそうだから。

死ねるならいつでも死にたい理由が、欲なんかいくらでもあって、いつまで経っても満たされないのが辛いからのだとしたら、欲深さのベクトルをもしかすると間違えているんじゃないかなと思ったりもします

誰かに何かをしてほしい欲求は満たされないと辛くなる

私たちはもっと祈りが必要なのかもしれない
こうしてほしい、とかこうなりたい、とかではなくて、こうなったらいいな、が必要なのかもしれない。

誰かの健康を祈ること、誰かの幸運を祈ること、自分の夢を祈ること、自分が何かを知りたいと思う気持ちが継続することを祈ること

散文になりましたが閉じます
私が普段思ってる純粋な気持ちです


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