社交性コンプレックスとの闘いの終焉宣言

ただただ今日は文字だけを書く
社交性コンプレックスとそろそろお別れをしないといけない日が来たと思う
残念ながら、克服するという形のお別れにならなかったけど、
それでも今日はお別れをしようと思った日だから、お別れする、そういう決意

とにかく、私には人とうまくやることができないと思う
基本的に人間関係をうまくやれない
だから、ものすごく“友達”が多い人に憧れるし
表舞台に立てる人に憧れる
うまくやれないことがわかっているから、表に立って何かをしようと思えない(表とはどこなのか、じゃあ裏ってあるのか、なんなのかって話は置いておく)
どうしても眩しく感じて見れないものがたくさんある
何をそんなに割り切れないのかわからない
私もそうなりたかった?
そうかもしれないし、たぶんそうでもない


私が以前FBに投稿した文章、ちょっと探しものをしていて見つけて、なんとなく感動してしまった(この長い文章の先に少しだけ載せておく)
もはやそういう感覚が私の無意識になって私を支えていることに気づいたから


私が生きやすくて、私が生きやすいがゆえに周りも生きやすくなってくれればそれでいい
誰かが犠牲になる必要もなくて、だから私が私を殺してまで、辛いことを無理してしなくてもいいはず
社交性に欠けてることが、私の目標や憧れの足を引っ張るなら、それを伸ばす努力をしてもいいし、それ以外を格段に伸ばしてもいい
結果と過程は必ずしもワンパターンではない

社交性がある人、たくさんの人と関わることが苦でない人に少なからず憧れや、もしかするともっと激しい嫉妬みたいなものもあるかもしれない
でも、他の「努力したらなんとかなること」とはどうしても次元が違った
私の場合

とにかく試してみた
幹事をしたり、たくさんの人と話したり
嫌いなわけじゃないけど、2時間ともたない
話題がもたないのではなくて、心や体力がもたない
一対一や3人くらいなら延々と話せるのに、たくさんの人がいる場所はとにかくダメだった

正直、好きなアーティストのライブに行くことすらかなり気持ちがもたない
行ってよかったと思えても、次行くときにはかなりの勇気がいる
たくさん経験してみたけど、こんなにも、どうしても克服できなかったことはないかもしれない

これはオフラインでもオンラインでも同じで、オンラインのほうが特に拒否感、拒絶感が出やすいと思う
自分の表情が気になってしまうからかな

たくさんの人の考えを聴くのはとても好きだし、お話するのもすごく好き
でも友達と知り合いの間にある線を超えることは本当に少ないと思う
それは私の心がどうしても抱えきれないから
誰の懐にも入っていける人がどれだけ羨ましかったか、羨ましいと今なお思っているか
けど、この事実と自分自身をもうそろそろちゃんと受け止めて、そういう人のいいところ、私は私のいいところを区別して飲み込まないといけないと思ってる
私のためにね

素直に誰かを応援することができない自分にはなりたくない
とはいえ常々多くの人と関わることをあまりしていないから、直接的な、例えばメッセージを送ったり、応援に駆けつけてみたり、みたいなことはしていないんだけど
(本当はそれができる人のほうが感じはいいよね、わかってるんだけど
一つ言えるのは、私は予期しない人と接すること自体に苦手意識があるから、不特定多数の人がいる電車は苦手で、外に出ることをあまりしない、というのが大きな理由)

ふと思い出す人が自分の幸せのための選択をしていたらいいな、とか、健康であったらいいな、とか、そんなことを思える人でありたいということで
思い出したら連絡してみたりとか、会おうよって伝えたりとか、そういうことができていることを
これからも大切にできるように生きれたらいいじゃないか、って思っている

そういう応援の選択肢を、私自身が受け入れないといけないと思う

他のことは努力と根性で乗り切れたとして、どうしても乗り越えられなかった壁を、拳で叩いてみたって変わらない

私は友達とまで言えないかもしれないと思っている人たちがたくさんいるけど(どちらかというとおこがましいかな、と思ってしまうので)
それでも出会ってくれたことに感謝しているし、とにかく幸せであってほしいと願ってる
ふとしたときに、あなたを思い出すようなことがあったとき、幸せでいてくれたらいいなといつも思ってる
それが届かなかったら意味がないかもしれないけど、
少なくとも私のことを知っている、この文章を読んでくれた人には、自分も入っているって思ってほしい

あと、私に出会ってくれたたくさんの人に、ごめんなさい
たくさんの人がいる場面で、私はあなたの話をほとんどちゃんと聞いていなかったと思う
周りでたくさんの人が同時に話していると、どうしても脳みそがストップしてしまう感覚があってあまり理解できていなかった

だから仲良くしてくれるみんな、少ない人数でまた話せたらいいなと思う

もしかしたらみんなに見せていた私は別人かもしれない

コロナは今までの生活を急に奪い去ってしまったけど、その分私はたくさんの人を思い出したし、その人たちが健康で、幸せに生きていてほしいと願っていたよ

きっとファンタジーのようにその気持ちは届いたりしないと思うけど、
私が私の乗り越えられなかった壁からそっと手を離せるように、ここに書いておきます

まだ振り返ってしまうと思うけど、それでもまた別の道にちゃんと向かえるように

ありがとう、それでも側にいてくれた人、頑張ってみた自分

今日で一度、この壁から少し離れた場所に歩いてみようと思うよ
ずっとその壁がそばにあったことは、後悔してないけど

最後に、私のFBから一部引用して終わります

なんかずいぶん図太く、都合よく生きられるようになったなあと思う。
高校生のころなんか、別に解決もしないことを、他人の分まで背負って悩んで、毎日がしんどかったのに、
今じゃもう一晩寝たら嫌なことなんかより次のことを考えられるようになったし、
数日経てば大して問題ではなくなるようになった。
昔よりはずっと人のことを考えられるようになった反面で、私はもっとずるく、冷淡になったのかもしれないな、とも思う。
助けてあげたいと思っても、本当に助けてほしいと相手が思うそぶりを見せない限り、優しさの安売りはしなくなった。
人生にも、生き方にも、誰かに対する行動の選択にも、正解はたぶんない。
正解だったかもしれないことはあるけれど、過去に戻る術を私たちはまだ知らない。
だから、起きてしまったことや、私から離れていった人、私のことが嫌いな人のことを私はもうどうすることもできない。
何か機会があったらまた変わるのかもしれないけど、私は、わざわざ追いかけて、ねえまだ仲良くしていようよ、私もいろいろ直すからさ、なんてご機嫌取りはもうしなくなった。
気が付いた時には研修で同じグループだった子たちがグループから全員抜けていて、私だけになっていた時とか、
お互いに触れてほしくなかったモヤモヤに触れてしまったことを後悔して少なくともちゃんと謝って終わりたかったことを思い出したりとか、
そんな日が続いているとしても。
変えられるのは今とこれからだけで、
だからそこに私は焦点を当てて、過去を引きずって過去の中を生きた結果散々な目に遭ったあの頃の自分とは決別して、
自分の中の正解を考え続けながら生きている。
特別な生き方はしていない。
だけど、たぶん人より「幸せ」という状態を貪欲に探し、求め、考え続けてきた。
多少誰かに嫉妬心が芽生えたりしても、誰かの幸せを私の幸せだと勘違いすることはもうないし、
私の幸せの形も、周りの人たちの幸せの形も受容するようになった。
生きやすくなった。
いろんな人の生き方を否定することが、自分の選択肢を狭めていることを知るまでにずいぶんと時間がかかった。
生き方を否定することと、私はその生き方はできないし、求めていなということはイコールではないこととか、
どうしてすぐに理解できないんだろう。
人に嫌われること、認められないこと、まだ何とも思わないほどまでにはなれないと思うけど、
それでも私は生きることとか、生き続けることとか、今を積み重ねて未来を創っていく感覚とか、次の世代にもっとたくさんの希望を持たせることとか、未来を託すこととか、好きなんだと思う。
たぶん、人が離れていったり、理不尽なことで罵倒されたり、殴られることがあっても、
この世界に絶望することはないし、衝撃的な出来事に埋もれてしまっているだけで、本当は素敵で、輝いている優しい人たちの方がずっとこの世の中にはたくさんいると知っているから。
ずっと思っている。真面目な人が、素敵な人が、優しい人が、バカを見る世の中であってほしくないって。
もし世の中が変わらなくても、私はそういう人がバカを見ないようにしたいと思う。
私は自分の受けた悲しみや絶望のすべてを全部世の中にぶつけない。
私は都合よく神様も信じているから。いいことが起きたらきっと神様がご褒美をくれて、悪いことが起きたら神様がお休みのタイミングを作ってくれてるって思えるくらいの都合よさ。
そうやって生きてる。
今まで、考えながら生きてきてよかったと思う。
ただ右から左へ受け流すように生きず、なぜ、なぜ、どうしたら、って考えてきてよかった。経験値は感覚と直感を正確にしてくれる。
だから今少し楽に生きていられる。

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