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火の番

朝の4時に目が覚めて気づいてしまったのです。僕はこのコヤキチに「火の番」をしたいがために来ているのではないか、と。
そこから、妄想に火がつきました。

目の前で炎となりやがて燃え尽きていく薪たち。
その赤々とした末路をじっと見ていると、ふと思いました。
この薪たちは、長いこと風雨にさらされ、間引き競争からも生き残ってきたツワモノたちではないか。だとすれば、薪ストーブとは、まさにツワモノたちの夢の跡に違いない。


あれほど固く、物によっては深く捻れ、重々しい存在感のある薪たち。
火のついた薪ストーブに、それを入れると、どんなに大きな薪でも最初はその表面をチリチリと焼かれます。そして、うまく火がつくのかと見守ること数十秒、薪は黒く変色していきます。このときに扉を開いて空気を入れてやると火のつきがかなりよくなりますが、それをしなくとも、ある瞬間に底面からボワッと火がついてオレンジ色の炎に包まれます。

この一次燃焼のステップを過ぎると、次は二次燃焼のステップです。炉内の壁面に開いた空気穴から、ホセ・メンドューサのコーンスクリューパンチのような渦巻いた青い炎(燃え残った可燃ガスに火がついたもの)が吹き出してきて、それが薪たちを紅蓮の炎に包み込んでいくのです。

薪たちはやがて、全身を黒い墨色にして〝本丸落城の勢い〟で燃え尽きていきます。そしてスカスカの炭の燃え滓のようになり、熾火になります。
それでも、熾火は赤々とした火の海になり、新しく投入された新兵の薪たちに火をつけるのです。この熾火たちの最後の活躍を見ていると、炎の鼓動が聞こえてくるようです。新しい炎を孵化させる予感に満ちた、ドクドクとした炎の鼓動。


気がつけば、ここが僕の居場所なのだ、ここに僕の居場所があるという気分になってきます。

この炎たちの誕生から死、そして再生の物語を見ながら「火の番」をしていると、僕はネイティブの少年で、或る日、村の長老から「火の番」をするよう仰せ付かるのですが、うっかり眠り込んでしまい、敵の襲撃を許してしまうという妄想が湧き上がってきました。
なんとか悲劇を逃れた最後のシーンで長老はこう言います。
「いいか、火は神なのだ。薪の作り方、火のつき方、炎の燃え方を見せて、人生の在り方を教えてくれる神なのだ。その神を見守るのが『火の番』の役目だ。それを疎かにしてはならない。それを疎かにすると、火が消えるように、心が消え、生命までが消えてしまう」

そんな妄想を楽しみながら、僕はこう思いました。
薪ストーブは薪の完全燃焼成仏システムなのではないか、と。
森で生まれたツワモノたちを一本まるごと燃え尽きるまで成仏させるシステム!その成仏の過程で、新しい生命の誕生を支え炎の再生を続けていくツワモノたち。

薪ストーブは、一旦火がまわり出したら完全燃焼させるシステムですが、一方では、そうやすやすと火がつかないようにできているマシンでもあります。
エコと安心。
この辺りも薪ストーブの面白いところです。

外から煙突を見ても煙はほぼ見えません。
姿を消したプレデターのようなモヤモヤとした透明な熱の塊が空に放たれていく様がよくよく目を凝らすと見えるだけ。
・・・・・ただ、木の燃える香りはするのです。

ふと、田舎の家で過ごした子どもの頃を思い出します。
まだ〝断熱〟などという考え方はなくて、〝夏を旨とすべし〟の慣わしに従い高温多湿な日本の梅雨から夏にかけての湿気対策に重きをおいた土壁の家。
そこに住んでいました。
それはそれは寒かったものです。
居間にはコタツがあり、その中だけが暖かかったので、家族はそこに集まって暮らしました。
エアコンはいつ登場したのでしょう。とにかく寒いのですが、コタツに足を入れると暖かいのでそこに足を入れ、腹這いになって、何もすることがなく、鬱屈した思いで土壁の端を指で崩しては、父親に叱られた記憶が鮮明に残っています。


小屋裏で蚕を飼う茅葺の古民家とは異なり、囲炉裏などという原始的な装置もなかった、なんとなく中途半端感が漂う、過渡期の民家で高校生までを過ごしたという原体験。

この辺りも、薪ストーブの家に対する憧れを誕生させた原点になっているように思えます。

コヤキチに来て「火の番」をしていると、とても落ち着きます。
目の前で炎が広がり、それがジンジンと体を暖めてくれるとうわかりやすい体験に、中途半端だった思いが解消される感覚でしょうか?

僕の場合、どうやら「火の番」は「心の番」と通じているようです。

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