見出し画像

医療現場のリハビリテーションを通して考えたサッカー

要約すると
・リハビリテーションとは、「訓練」をさすことではない。
・リハビリテーションとサッカーは変革の時を迎えている。
・変革のみにとらわれず、それは人生に豊かさを与えるものと思い出そう。

フットボリスタラボのむらやっちです。本業は整形外科/リハビリテーション科の医師で、1年ほど前からいわゆる「お父さんコーチ」としてサッカーに関わっています。今回、「誰かに言いたいんだけど誰に言ったらいいかわからなかった話」の一つとして、自分が薄々感じていたリハビリテーションとサッカーの似ている点を書いています。最後はJFAに寄っていますが、そこは愛嬌(?)としてお付き合い頂ければ幸いです。

はじめに断っておきますが、「怪我をしたサッカー選手のリハビリ」について述べるわけではありません。ではでは、少し長くなりますが始まります。

近年のリハビリテーションとサッカー

医療におけるリハビリテーションは、以前の「リハビリ」のイメージから比べると驚愕の進歩を遂げており、ロボットを使ったものを代表として種々の科学的なアプローチが実践されている。そこには方法論の目覚ましい変革が起きており、医療従事者としても理解が追いつかないほどの速さがある。

一方、サッカーの指導について学ぶにつれ、自分の抱いていたサッカートレーニングのイメージは従来式のものであり、サッカーも科学的なトレーニングが実践され、方法論の変革が起きていることがわかった。これも学ぶほどに、様々な議論がなされており、凄まじいスピードで変化をしていることを実感している。

リハビリテーションとサッカーのトレーニング、「従来型のものが悪いわけではない」という共通点に気づいたことが、この話の始まりである。

リハビリテーションの定義

まずはじめに、なかなかわかりにくい「リハビリテーション」に関して少し述べることにする。

rehabilitationとは、身体的、精神的、社会的に最も適した生活水準の達成を可能とすることによって、各人が自らの人生を変革していくことを目指し、且つ時間を限定した過程である。

これは、1982年の国際障害者世界行動計画による定義である。とてもぱっと見で理解できる文章ではないと思うが、決して「リハビリは訓練である」とは書いてないことを感じていただければと思う。

様々な定義があるが、自分の伝えたいところとしてはリハビリテーションとは「生活への復帰のプロセスとシステム」であり、悠久の時をかけても元の状態には戻れず、有限のものであると理解していただければと思う。

リハビリ≠身体のトレーニング

一般的に、リハビリというと身体のトレーニングを表すことが多い。それは、医療においてリハビリテーションの根幹を担う理学療法士、作業療法士、言語聴覚士のメインの仕事になる機能訓練が、どうしても身体トレーニングというイメージを引き起こすのだろうと思う。

患者から聞くリハビリテーションのイメージは、「関節を動かし、マッサージを施し、歩くための筋力トレーニングをさせ、歩行訓練をする」、「なんか変わったトレーニングをすると体が動くようになる」、「首または腰の牽引を施し、患部を温め、電気をかける」といったところである。いわゆる従来型のリハビリテーションであるが、これは決して間違いではない。事実、そうなのである。

リハビリテーションとしての一つの考え方~釣り編~

ここで、一つの例を挙げることにしよう。
注意して欲しいが、別にサメを釣る話ではない。

とある先生が講演で話された内容をもとにするが、例えばなんらかの疾患(外傷)で障がいを持った人が「釣りをしたい」という希望をもったとする。多くの人の頭に浮かぶのは、その人が上手に釣り竿を振ることが出来るかどうかだろう。

しかし「釣りをする」ことは、実に様々な要因が含まれている。

朝起きる。ベッドから起き上がり、立つ。
歩いて、朝の準備をすませ、食事をする。
出かける準備をして、出かける。
歩いていけるのか、電車か、車か。
釣り場についたら竿をだし、糸を調整し、餌を針につける。
やっと竿を振れるようになった。

さてここからだ。
竿を握り、肘を曲げ、腕全体を後ろにひき、
手首を返しながら腕全体を前に振る。おっと、立ってやるか座ってやるか。体幹の安定性も重要になる。
浮きをじっと見つめ、浮きが沈んだら合わせて魚をかける。
魚の動きにあわせて竿を動かし、
リールを巻き、魚を釣り上げる。
釣り上げたら、魚の口から針をはずして
クーラーボックスにいれる。

ここまででやめよう。
わかるだろうか、「釣りをする」ことは様々な要因が含まれている。

さらに言えば、釣りをする金銭的な問題、時間的な問題を解決できるかどうか、そもそもこれだけの課題をクリアしながら本人がモチベーションをどこまで維持できるか。
釣りをするだけでも、細かくわけると多くの課程に分けられる事がわかる。

さあ、従来型のリハビリテーションで対応ができるだろうか。

リハビリテーションの変革

上記の例はあくまで一つに過ぎないが、社会のニーズにあわせ、多くの医療人がリハビリテーションに関して様々な思いを巡らせることになった。

脳卒中により損傷した脳が、元通りになることはない、しかし損傷部位から予後を予測できるのではないか。状況にあわせ、段階を踏んだ機能訓練が必要ではないか。同じ疾患であれば、標準的なプロトコルが作成できるのでは、もっと患者のニーズにあわせたリハビリテーションが提供できるのでは、そもそも、今までやってきたことが患者の生活に直結していたのか?

ただ患者にマッサージを施し、筋トレを行い、なんとか歩かせ、誰かが考案したよさげなトレーニングを網羅的に行なっただけでは、「釣りが出来るようになる」人も「釣りが出来る能力があるのに出来ない」人も出てくる。

患者の状態をよく観察し、目指すべき行動をよく分析し、それに合わせたリハビリテーションを提供し、段階を踏みながら、その人の可能な範囲での目標達成への道筋を考えることが必要なのだ。残念ながら、どんな適切なリハビリテーションを提供したとしても、「釣りが出来る」能力を持ち得ない人もいるのも事実ということを忘れてはならない。

サッカーのトレーニングの変革

どうだろう。サッカーのトレーニングの話に似てきただろうか。

いわゆるサッカーのトレーニングのイメージにある、二人一組対面でのパス交換、リフティング、コーンドリブル、一対一。今も昔も、この従来型のトレーニングに関しては散々な議論がされてきている。しかし、一向に廃れることはない。誰もサッカーのトレーニングとして間違いとは言えないのだ。

しかし、「サッカーはサッカーでしか上手くならない」という言葉が表すように、サッカーで起こりうる状況を想定したトレーニングが求められている流れがある。

準備運動を行ない、ダッシュなどのフィジカルトレーニングを行ない、単調にボールを蹴り、筋トレを行ない、誰かが考案したよさげなトレーニングを網羅的に行なっても、「上手くなる」選手もいるが「上手くなる素質はあったのに上手くなれない」選手も出てくる。

選手の状態をよく観察し、目指すべきサッカーをよく分析し、それに合わせたトレーニングを提供し、段階を踏みながら、その選手の可能な範囲での目標達成への道筋を考えることが必要なのだ。当然ながら、どんな適切なトレーニングを提供できたとしても、全員がプロになれるわけではない。

「選手」という言葉を「チーム」に置き換えて読んでもかまわない。

リハビリテーションとサッカーの相似

これが正しい道なのかは未来に判断を委ねるしかないのだが、リハビリテーションとサッカーのトレーニングにおける最近の変革は、非常によく似ていると感じる。

従来型のものがダメという根拠はない。また自宅での生活を通して、「医療で提供されるリハビリテーション」で得られることより多くを得る人もいるように、サッカーの試合を通して「指導者から提供されるトレーニング」以上の成長を選手自身が得ていく姿があるのも事実だ。

ここでもう一度リハビリテーションの難解な定義を読み直して欲しい。リハビリテーションとは訓練でないと最初に述べた。では、サッカーはトレーニングを通して上手くなるだけがすべてのスポーツであっただろうか。

JFAの理念にはこう書いてある。

「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」

リハビリテーションは「生活への復帰のプロセスとシステム」である。医療機関で提供できるリハビリテーションは、そのサポートでしかない。残念ながら完全に治ることはない。走れるようになりたいと願っても、100m9秒では走れない。そもそもが、その人にあった生活があるのだ。

サッカーにも「その人にあわせたサッカー」がある。プロを目指すだけが目的ではない。プレーヤーになることだけがサッカーのすべてではない。世界には、様々な形でサッカーに関わる人たちがいる。

以上が、医療現場のリハビリテーションを通して考えたサッカーである。

リハビリテーションもサッカーも、その人の人生に豊かさを与えるエッセンスになることが大切なのだと自分は考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?