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#1 羊文学とギターロックバンドに宿る魔法について

つい先日、いろんな賛否両論を巻き起こしながらフジロックフェスティバルが2年ぶりに開催されました。いろいろ考えて、悩みに悩んで、去年買っておいたチケットを払い戻して今年は参加しないっていう決断をしましたが、僕はフジロックっていうフェスには並々ならぬ思い入れを抱いていて、色々あって東京開催になった’98から、仕事が忙しくなりすぎた頃の何年かのブランクを除いてほぼ参加しており、フジロックでテント泊をし始めたことがきっかけで、“このテントはフジで使えるな“とか、“あの苗場のクソ寒い朝にあったかい飲み物が飲みたい“とか、“新しいテントを買ったからフジの前にリハで一回キャンプに行かんとあかん“とか、長い年月を掛けてフジロックきっかけでキャンプもライフワークの1つになったくらい、フジロックフェスティバルは本当に大切で。時にはジリジリするような太陽に照りつけられたり、またある時にはクソみたいな雨に降られながら、一生忘れられない体験を数多くしてきた、特別な場所なんです。

で、今年のフジロックで初めてライブが観られるのをムチャクチャ楽しみにしていたアクトが、羊文学なのでした。フジロックのYouTube配信を食い入るように観て、その佇まいも含めたライブに改めてため息を漏らしてしまいました。最初に羊文学の音楽を聴いたのはもう数年前になると思いますが、細々と続けているTwitterで、“この人がオススメしてる音楽はチェックすべし“みたいな人ってのが何人かいて、そのうちの1人がオススメしてたので聴いてみた、ってのがきっかけでした。そこから何となくリリースがあったらチェックするみたいな距離感だったんですけど、決定的だったのは、おそらく現時点での代表曲だと思われる“1999“を聴いた時だったと思います。

轟音のフィードバックギターを弾き出しながらそれほど歌い上げないヴォーカリゼーションと、3ピースながらタイトで引き締まった演奏… とか、凡庸な僕の文才で語ろうとすると、なんかありきたりでありふれたものになってしまってすぐに限界を感じてしまいます。そう、何というか、何でここまで自分が羊文学に興奮してるのかが、よく分からない、うまく言語化できないんです。

自分の原体験がいわゆる90年代のギターロック、ブリットポップから入って、同時期からちょっと前のクリエイションレーベルのバンドとかUSインディ(ダイナソーJrとかピクシーズとか)をディグしていったこともあって、さっき書いたみたいなギターバンドってホントに沢山いて、自分でも山ほど聴いたんですけど、退屈なものもけっこうあったんですよ。パッと聴いたら羊文学もフォーマットはそれらに倣ったものって言えると思うんですけど、それが塩塚さんの声なのか、3ピースのアンサンブルなのか、なにか言語化できない何かがどうしようもなく琴線に触れる感じがして、もう“ある種のギターバンドに宿る魔法みたいなもの”としか言いようがないなぁ、と思うんですよね。

(このダイナソーJrの曲、ひっさびさに聴いたけどいまも最高ですね)

で、この“何かよく分からないけど好き過ぎるギターロックバンド”って、ホントに時々自分の前に現れるんですよねぇ。習性でこんな感じのギターロックバンドっていつの時代も気になってチェックしてしまうんですけど、大抵はパッと聴いて“エエなぁ”くらいで終わっちゃうって言うか。羊文学を好きな感じには至らない感じで終わっちゃうみたいな。で、この羊文学をどうしようもなく好きなカンジ、自分の中の何かに似てるなぁとずーっと思ってて、ある日思い出したのがスーパーカーなんですよ。

全くの同世代だったこともあって、このデビューシングルを聴いた瞬間から“ああ、オレのバンドがついに現れた!”とかアホなことを言いながらムチャクチャ興奮したんですよ。キャリアの変遷とともにトライバルなビートを取り入れていった後期も好きでしたが(ちょうど自分のダンスミュージックへの興味と同じタイミングだったし)、デビューシングルから1stアルバム“スリーアウトチェンジ”に至るあたりのスーパーカーがもう狂おしいくらい好きで。スーパーカーも別に演奏やサウンドが特別他と違うとかではなかったと思うんですけど、音が鳴った瞬間の何とも言えない“あの”気持ち、魔法が宿ってるとでも言いたくなる“あの”感じを、羊文学の音楽からも感じる、そんなことを考えてしまうんです。そんな感情にさせてくれるバンドが現在進行形で活動してるって事実がとても素敵やなぁ、と思っています。



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