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梶田真章氏のことばから

私が嫌いな言葉は「自然と人間の共生」です。人間はチンパンジーやゴリラなどを含めた人類の一種に過ぎないのに人間の周囲にある人間とは別個の存在のように自然を捉える西洋流の明治時代以降の悪癖は今すぐ改め、自然とは目に見える対象ではなく生き物同士の支え合いのしくみを表す言葉だという意識を持ちたいと思います。環境学習では、目に見えるものだけではなく生き物が全て複雑に絡み合って存在している関係性を全体として学ぶことが重要です。市街地に生活していてもアスファルトの下には大地があり、京都盆地の地下には水が満々と蓄えられていることを想像することが大切です。私が他のいのちと別個に存在して共生しているのではなく、私が生きていること自体が他のいのちに支えられているという共生の姿であり、共生とは共に支え合うことでもあり、共に傷つけ合い、殺し合うことでもあります。他の存在と境界を持つ私のいのちなどというものはどこにも存在せず、毎日食事を通していただく殺された全てのいのちは私の中で重なり合っています。「きみは今、椿なの。僕は今、僧侶だよ。」という心持ちを大切にして、生きとし生けるものにはゆったりと平等な時間が流れていることを再確認してゆきたく思います。

私が様々ないのちの「おかげさま」で生きていること自体が「もったいなく」「有難い」ことです。「ありがとう」は、「めったに無いことをして下さって有難いことです」と、相手との尊き御縁を感謝して心を込めて発せられてきた筈です。昔は「ままならない」のが人生であり、自分の思い通りの結果になったのは、善き因縁が整った有難いことであると受け止められていましたが、便利な暮らしを享受するようになった現代では、人生は意のままになるもので、他人にはしてもらって当たり前という感覚が強く、「ありがとう」が軽い気持ちで口にされます。高度経済成長以降、仲間ではなく他人に囲まれて暮らす社会を築き、責任は自分が「果たす」ものではなく、他人に「問う」ものであるという現代ですが、愚かな人間が作っている社会だから、時にはミスもする人間同士、互いに期待し過ぎず、各々の違いを受け容れる仲間意識を改めて培うために、相手を気遣う挨拶を心から交わせる社会を再構築してゆきたいと思います。

人間は自己中心的で、善悪ではなく基本的に損得勘定を大事にする生き物ですから、環境問題の解決には人間の道徳心に期待するばかりではなく、環境税などを導入して損得を気にする心を刺激することが必要です。欲しい物を買って、一人で好きなことをして自由気ままに時間を過ごすことが素晴らしい人生だと消費生活を謳歌している方が多い現代日本ですが、言葉にならない他の動物や植物のささやき・叫び、あるいは他人の声に耳を傾けることを自己の考えを主張する以上に大切にして、他のいのちとの関係を地道に築くことに日常的な喜びを見出し、ささやかに自分が出来ることをさせていただきながら、丁寧に暮らしてゆければと願っています。
合掌


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