公教育がいかに子どもをダメにするか、そしてなぜダメになるか

ジョン・テイラー・ガット

https://people.wou.edu/~girodm/100/Gatto.pdf

ジョン・テイラー・ガット

John Taylor Gatto

*wikiより一部抜粋:
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主張
義務教育は子供にどの影響を与えるのかについて、1991年の著書『バカをつくる学校(英語版)』(Dumbing Us Down)で下記の通り定義している:
1、それは生徒を混乱させる。学校から追い出されないためには、滅裂に集められた情報をこどもが暗記しなければならない。テストや試験を除けば、このプログラムはテレビと似ている。それは、子どもたちのほぼすべての「自由な」時間を埋めている。人は見聞きしたものをすぐに忘れる。
2、自分の社会的地位を受け入れることを教わる。
3、それは彼らを無関心にする。
4、それは彼らを感情的に依存させる。
5、それは彼らを知的に依存させる。
6、それは、専門家による絶え間ない確認を必要とする一種の自信 (暫定的自尊心) を彼らに教える。
7、常に監視されていることに気づき、自分が隠れられないことを覚える。
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*太字や ( ) 内の注釈は翻訳者のメモ。内容に間違いのある箇所を含むので、読む場合は注意と疑いが必要です。


私は、マンハッタンでも最悪の学校と最高の学校で、30年教鞭を取り、その間に退屈の専門家になった。退屈は私の世界の至る所にあり、私がよくしたように、子どもたちになぜ退屈を感じるのかと尋ねると、いつも同じ答えが返ってきた、この仕事はくだらない、意味がない、もう知っている、と。ただ座っているだけでなく、何か現実的なことをやりたいと言うのだ。教師は自分の教科のことをよく知らないようだし、もっと学ぶことに興味がないのは明らかだと。子どもたちは正しかった、そして教師たちも自分たちと同じように退屈していた。

退屈は教師の共通の条件であり、職員室で過ごしたことがある人なら誰でも、そこに見られる元気の無さ、愚痴、意気消沈した態度を保証することができるだろう。なぜ退屈なのかと尋ねられれば、教師たちは予想通り子どもたちのせいにしがちだ。無作法で成績にしか興味のない生徒を教えていて、誰が退屈しないだろうか?ご推察の通り。もちろん、教師自身が、生徒を徹底的に退屈させた同じ12年間の義務教育プログラムの産物であり、学校教員として、子どもたちに課せられたものよりもさらに厳格な構造の中に閉じ込められている。では誰が悪いのだろうか?

私たちはみんなそうだ。祖父がそれを教えてくれた。7歳のある日の午後、退屈だと祖父に文句を言うと、彼は私の頭を強く叩いた。祖父は、私が退屈しているのは私のせいであり、他の誰のせいでもないと言った。自分を楽しませ、指導する義務はすべて自分にあり、それを知らない人間は幼稚な人間であり、できれば避けるべきだと。確かに信用できない。そのエピソードは、私の退屈を永遠に癒してくれたし、何年もかけてあちらこちらで、その教訓を優れた生徒に伝えることができた。しかしほとんどの場合、退屈と幼稚さが教室での自然な状態であるという公式見解に異議を唱えることは無駄だと分かった。子どもたちがこの罠から抜け出すのを助ける為に、私はしばしば慣習に逆らい、法律さえも曲げなければならなかった。

もちろん帝国は逆襲した、幼稚な大人たちは、常に反対と不誠実を混同している。私はかつて医療休暇から戻った時、休暇を許可されたことを示すすべての証拠が意図的に隠蔽され、私の仕事は打ち切られ、教員免許すらもはや持っていないことを知った。苦節9ヶ月、私は学校の秘書がこの陰謀を目撃したと証言したことで、免許証を取り戻すことができた。その間、私の家族は思い出すのも嫌なほど苦しんだ。1991年に退職するまでに、私は、生徒も教師も長期にわたって独房のように強制収容される学校を、事実上の幼稚工場と考える十分な理由があった。しかし、なぜそうでなければならないのか、正直なところ分からなかった。私自身の経験から、他の多くの教師たちもまた、その過程で学ばなければならないことを知っていたが、報復を恐れて自分の殻に閉じこもっていた。私たちがその気になれば、旧態依然とした愚かな構造を簡単かつ安価に捨て去り、子どもたちが単に学校教育を受けるのではなく、教育を受けられるようにすることができる。好奇心、冒険心、たくましさ、驚くような洞察力といった若さゆえの最高の資質を促すには、時間やテキスト、テストにもっと柔軟に対応し、真に有能な大人に子どもたちを紹介し、生徒一人ひとりが時々リスクを冒すために必要な自主性を与えることだ。

しかし、私たちはそれをしない。そして、学校教育の「問題」について技術者として考え続け、なぜそうしないのかを問えば問うほど、私は的外れになっていった、もし学校に「問題」がないとしたら?もし彼らが今のままで、子どもたちは物事を学ぶ方法の常識と長い経験に直面して、彼らが間違ったことをしているからではなく正しいことをしているから、高額な費用を投じているのだとしたら?ジョージ・W・ブッシュが「子どもたちを置き去りにしない」と言ったのは、偶然にも真実だったのだろうか?私たちの学校は、子どもたちが一人も成長しないように設計されているのだろうか?

学校は本当に必要なのか?教育という意味ではない、1日6クラス (授業、時間) 、週5日、年9ヶ月、12年間。この致命的なルーティンは本当に必要なのか?200万人の幸せなホームスクーラーは、そんな陳腐な正当化にはきっと終止符を打ったはずだからだ。仮にそうでなかったとしても、著名なアメリカ人の中には、現在の子どもたちが経験するような12年間の苦難を経験することなく、立派に成長した人々が大勢いる。ジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・ジェファーソン、エイブラハム・リンカーン?確かに誰かが彼らを教えたが、彼らは学校制度の産物ではなく、中等学校を「卒業」したものは一人もいない。アメリカの歴史の大半を通じて、子どもたちは一般的に高校に行かなかったが、不登校の子どもたちは、ファラガットのような提督、エジソンのような発明家、カーネギーやロックフェラーのような産業界の大物、メルヴィルやトウェインやコンラッドのような作家、そしてマーガレット・ミードのような学者にまで登りつめた。実際、ごく最近まで、13歳に達した人々はまったく子どもとして見られていなかった。アリエル・デュラントは、夫のウィルと共同で膨大な非常に優れた世界史を執筆し、15歳で幸せな結婚をしたが、彼女が無学な人間だったと誰が合理的に主張できるだろうか?不登校かもしれないが、無学ではない。

私たちはこの国で、「成功」は「学校教育」と同義である、あるいは少なくとも「学校教育」に依存していると考えるように教えられてきた [つまり学校教育を受けた] が、歴史的に見れば、それは知的な意味でも経済的な意味でも正しくない。そして今日、世界中の多くの人々が、刑務所のような義務教育の中等学校制度に頼ることなく、自らを教育する方法を見出している。では、なぜアメリカ人は教育をそのような制度と混同するのだろうか?公立学校の目的はいったいなんなのだろうか?

強制的な (compulsory….義務的な) 性質の集団教育は、1905年から1915年の間にアメリカに本格的に導入された*が、それよりもはるかに早く考案され、19世紀のほとんどの期間にわたって推進された。家庭生活と文化的伝統のこの大きな激変の理由は、大まかに言って3個あった:
1)良い人間を作る為。
2)善良な市民を作る為。
3)一人一人を自己最高の人間にする為。

* 日本では1886年4月10日に小学校令が交付される。
尋常小学校 (尋常….普通、並などの意味)

これらの目標は今日でも定期的に掲げられており、私たちのほとんどは、学校が実際に達成するのに不十分であろうと、公教育の使命の適切な定義としてなんらかの形で受け入れている。しかし、それは大きな間違いである。私たちの誤りをさらに複雑にしているのは、全国の文献が義務教育の真の目的について、驚くほど一貫した記述を持っているという事実である。例えば、偉大なH・L・メンケンは1924年4月の『The American Mercury』の中で、公教育の目的は、若者を知識で満たし、知性を目覚めさせることではない、と書いている….これほど真実からかけ離れたことはない。その目的は、できるだけ多くの個人を安全なレベルまで引き下げ、標準化された市民を育成・訓練し、異論や独創性を封じ込めることにある。それがアメリカにおける目的である….そして、それはどこの国でも同じなのだ。

風刺作家としてのメンケンの名声ゆえに、この一節を大袈裟な皮肉として片付けたくなるかもしれない。しかし、彼の論文は、我が国の教育制度の雛形を、今はなく、しかし決して忘れることのできない軍事国家プロイセンにまで遡っている。そして、プロイセンの思想と文化を引き継いだドイツと最近戦争状態にあったという皮肉を彼は確かに自覚していたが、メンケンはここでは至って真面目に語っているのである。私たちの教育システムは本当にプロイセン発祥のものなのだ。

私たちの学校にプロイセンの起源があるという奇妙な事実は、一度それを探すことを知ると、何度も何度も出てくる。ウィリアム・ジェームズは世紀の変わり目に何度も言及した。1991年に出版されたクリストファー・ラシュの著書『The True and Only Heaven』の主人公であるオレステス・ブラウンソンは、1840年代にアメリカの学校のプロイセン化を公に非難していた。ホーレス・マンが1843年にマサチューセッツ州教育委員会に提出した『第7回年次報告書』は、本質的にはフリードリヒ大王の国への賛美であり、その学校教育をここに持ち込むことを求めている。プロイセン文化がアメリカで大きな位置を占めるようになったのは、プロイセンのユートピア国家と私たちは早くから関わっていたことを考えれば、驚くべきことではない。プロイセン人が独立戦争中にワシントンの補佐官を務め、1795年までに多くのドイツ語圏の人々がアメリカに定住した為に、連邦議会はドイツ語版の発行を検討した。しかし、衝撃的なのは、プロイセン文化の最悪の側面の一個をこれほど熱心に採用していたことである、それは凡庸な知性を生み出し、内面的な生活を阻害し、生徒たちに相当なリーダーシップを身に付けさせないようにし、従順で不完全な市民を確保するように意図的に設計された教育制度であり、すべては民衆を「管理可能」にする為である。

私がアメリカの学校教育の真の目的を初めて知ったのは、ハーバード大学で20年間の学長であり、第一次世界大戦の毒ガス専門家であり、第二次世界大戦の原爆プロジェクトの幹部であり、第二次世界大戦におけるアメリカ地域の高等弁務官であり、まさに20世紀で最も影響力のある人物の一人であるジェームズ・ブライアント・コナントからだった。コナントがいなければ、今日のような標準化されたテストの様式や学位 (degree….程度、度合い、レベルなど) はなかっただろうし、コロラド州リトルトンにある有名なコロンバイン高校のように、一度に2000人から4000人の生徒を収容する巨大な高校もなかっただろう。教職を引退した直後、私はコナントの1959年の長編論文『子ども、親、そして国家 (The Child the Parent and the State) 』を手に取った。彼が、私たちが通う現代の学校を1905年から1930年にかけて行われた「革命」の結果であると述べているのを見て、少なからず興味をそそられた。革命?彼は詳しい説明を避けたが、好奇心旺盛な人や無知な人に向けて、「革命家の目を通してこの革命を見た」と述べているアレクサンダー・イングリス (Alexander James Inglis) の1918年の著書『中等教育の原理 (Principles of Secondary Education) 』を紹介している。

イングリスは、ハーバード大学の教育学の講義名を冠しているが、この大陸における義務教育は、1820年代のプロイセンがそうであったように、農民やプロレタリア (賃金労働者) に交渉の席での発言権を与える恐れのある、急成長しつつある民主主義運動への第五の柱であることを完全に明確にしている。近代的で工業化された義務教育は、こうした下層階級の将来的な団結に、外科的な切開を加えるものだった。

教科によって、年齢によって、テストでの絶え間ない順位によって、その他多くの巧妙な手段によって子どもたちを分断し、子ども時代に分けられた無知な人類の集団が、再び危険な全体へと再統合することはありそうもなかった。

イングリスは、現代の学校教育の目的 - 実際の目的 - を、6個の基本的な機能に分類しているが、そのうちのどれをとっても、先に挙げた伝統的な3個の目的を信じてしまうような無邪気な人々の髪を巻く (curl the hair….ショックを与える?) のに十分である:

1)調節または適応機能。学校は、権威に反応する固定した習慣を確立するものである。これはもちろん、批判的判断を完全に排除する。また、有益なことや興味深いことを教えるべきだという考えも、ほぼ崩壊してしまう。なぜなら、子どもたちに愚かで退屈なことを学ばせ、それを実行できるかどうかを知るまでは、反射的な服従テストをすることができないからである。

2)統合機能。これは「同調 (conformity….適合、適応、整合など) 機能」と言ってもいいかもしれない。なぜなら、その意図はできるだけ子どもたちを同じようにすることだからである。同調する人間は予測可能であり、これは大きな労働力を利用し、操作したい人々にとって非常に有用である。

3)診断および指示機能。学校は、生徒一人一人の適切な社会的役割を決定することを目的としている。これは、累積記録に数学的および事例的に証拠を記録することによって行われる。「あなたの永久記録」のように。そう、あなたは持っている。

4)差別化機能。一旦子どもたちの社会的役割が「診断」されると、子どもたちは役割ごとに分類され、社会的機械 (social machine….人間とテクノロジーが相互作用し、両者が存在しなければ不可能な出力やアクションを生成する環境のこと) の中でその目的地にふさわしいところまでしか訓練されない。子どもたちを自己最高の状態にするのは、そこまでだ。

5)選択機能。これは人間の選択ではなく、ダーウィンの自然選択理論を彼が「有利な種族」と呼んだものに適用したものである。要するに、繁殖株を意識的に改良することで、物事を手助けするということだ。学校は、不適合者に成績不振、補習、その他の罰を与えることで、同級生が彼らを劣等生として受け入れ、繁殖競争から事実上締め出すのである。小学校一年生から続く小さな屈辱は、そのようなことを意図している。

6)propaedeutic (予備、準備、初歩の) 機能。これらの規則によって暗示される社会システムは、エリート集団の世話人を必要とする。その為に、ごく一部の子どもたちは、その継続的なプロジェクトを管理する方法、政府が意義を唱えずに進み、企業が決して従順な労働力を望んでいないようにする為に、意図的にバカで骨抜きにした国民を監視し制御する方法を、静かに教わることになる。

残念ながら、これがこの国の義務教育の目的なのだ。イングリスを、教育事業に対するあまりにも冷笑的な見方で孤立した変人だと思わないでほしい、このような考えを唱えたのは彼一人ではなかったことを知るべきである。コナント自身も、ホーレス・マンやその他の人々の考えを基に、同じ路線に沿って設計されたアメリカの学校制度を求めて精力的に運動した。南部全域で義務教育の大義名分に資金を提供したジョージ・ピーボディのような人物は、プロイセンのシステムが無害な有権者と隷属的な労働者だけでなく、事実上無頓着な消費者の下層的な群れを作るのに有用であることを確かに理解していたに違いない。やがて、アンドリュー・カーネギーやジョン・D・ロックフェラーなど、産業界の巨人たちが、公教育を通じてこのような群れを育て、世話をすることで莫大な利益が得られることを認識するようになった。

そうだ。これでもうお分かりだろう。カール・マルクスのような階級間の壮大な戦争という概念を使わなくても、それが政治的であれ経済的であれ、複雑な経営が人々を萎縮させ、士気を低下させ、互いを分断し、従わなければ切り捨てることが利益になることは分かる。1909年、当時プリンストン大学学長だったウッドロー・ウィルソンが、ニューヨーク市学校教師協会で次のように述べたように、階級がこの命題の枠組みを作ることもある、「我々は、ある階級の人々に自由な教育を受けさせたいと考えている。一方、別の階級の人々、つまり、非常に大きな階級の人々が、自由な教育の特権を放棄して、特定の困難な肉体労働を行う為に自分自身を適合させることが、あらゆる社会において必要であることを望んでいる。」しかし、このような目的をもたらす嫌な決断の背後にある動機は、階級に基づくものである必要はまったくない。それは、純粋に恐怖から来るものであってもいいし、愛、自由、笑い、希望よりも「効率」こそが最も重要な美徳であるという、もはやお馴染みの信念から来るものであってもいい。何よりも、それらは単純な貪欲さに起因することもある。

何と言っても、大量生産を基盤とし、中小企業や家族経営の農場よりも大企業に有利になるように組織された経済では、巨万の富を気づくことができた。しかし、大量生産には大量消費が必要であり、20世紀初頭のアメリカ人の多くは、実際に必要でないものを買うことは不自然であり、賢明でないと考えていた。その点、義務教育は天の恵みだった。学校は子どもたちに消費し続けるべきだと考えるように、直接的な意味で訓練する必要はなかった、なぜならさらに良いことをしたからだ、何も考えないように促したのである。その結果、子どもたちは近代におけるもう1個の偉大な発明である、マーケティングの格好の餌食となった。

さて、マーケティングを勉強したことがなくても、必要以上に消費してしまう人には、中毒者と子どもの2個のグループがあることを知っているだろう。学校は私たちの子どもたちを中毒者にするのにかなり良い仕事をしてきたが、子どもたちを子どもにするのに見事な仕事をしてきた。繰り返すが、これは偶然ではない。プラトンからルソー、そして私たちのイングリス博士に至るまで、理論家たちは、もし子どもたちが他の子どもたちと一緒に閉じこもり、責任と自立を奪われ、貪欲、羨望、嫉妬、恐怖といったつまらない感情だけを発達させるように仕向けられれば、子どもたちは歳を取るが、本当の意味で成長することはないだろうことを知っていた。エルウッド・P・キューバリーは、1934年に出版された彼の有名な著書『アメリカの公教育』の中で、学校を次々と拡大していく戦略によって、子ども時代が2年から6年に延長され、強制的な学校教育がその時点ではまだまったく新しいものであったことを詳述し、称賛している。スタンフォード大学教育学部の学部長であり、ホートン・ミフリン大学の教科書編集者でもあり、コナントの友人でハーバード大学の特派員でもあったこのキューバリーは、1922年に出版された著書『公立学校管理局 (Public School Administration) 』の中で、次のように書いている:「我々の学校は….原材料 [子どもたち] が形作られ、形成される工場である….。そして、定められた仕様に従って生徒を作るのが学校の仕事である。」

その仕様が何であったかは、今日の社会を見れば一目瞭然だ。成熟は今や私たちの生活のほぼすべての側面から追放されている。簡単な離婚法は、人間関係に勤しむ必要性を排除し、金融緩和は財政を自己管理する必要性を排除し、安易な娯楽は自分を楽しませることを学ぶ必要性を排除し、安易な答えは質問する必要性を排除した。私たちは子どもの国になり、実際の大人を侮辱するような政治的な勧めや商業的な冒涜に、私たちの判断や意思を喜んで明け渡すようになった。テレビを買い、テレビで見たものを買う。コンピュータを買い、コンピュータで見たものを買う。私たちは必要かどうかに関わらず、150ドルのスニーカーを買い、あまりにも早く壊れたらまた別のスニーカーを買う。SUVに乗り、SUVが一種の生命保険のようなものであるという嘘を信じている。そして最悪なことに、アリ・フライシャーに「言葉に気を付けろ」と言われても、例え学生時代に「アメリカは自由の国だ」と言われた覚えがあったとしても、私たちは瞬きすらしない。私たちはそれも買うだけだ。私たちの学校教育は、意図した通りにそれを見てきた。

さて、良いニュースだ。現代の学校教育の背後にある論理を理解すれば、そのトリックと罠を避けるのはかなり簡単だ。学校は子どもたちを従業員や消費者になるように訓練する、自分の子どもにはリーダーや冒険者になるように教えよう。学校は子どもたちを反射的に従うように訓練する、批判的かつ自主的に考えることを教えよう。彼らが決して退屈しないよう、内面的な生き方を身に付けさせよう。歴史、文学、哲学、音楽、芸術、経済学、神学など、学校の教師が避けて通るような、大人顔負けの本格的な題材に取り組むように促そう。子どもたちが、自分自身と一緒にいることを楽しみ、内面的な対話を学べるように、たくさんの孤独に挑戦させるのだ。学校教育の行き届いた人々は、一人でいることを恐れるように仕向けられており、テレビ、コンピュータ、携帯電話、そしてすぐに手に入れてすぐに捨てられる浅い交友関係を通じて、常に仲間を求めている。子どもたちはもっと有意義な人生を送るべきだし、そうすることができる。

しかし、まず、私たちは学校の本当の姿に目を覚さなければならない。それは、幼い心を実験する実験室であり、企業社会が求める習慣や態度を身につける為の訓練センターなのだ。義務教育は子どもたちに偶然にしか役に立たない、本当の目的は彼らを召使にすることなのだ。例え1日でも、子ども時代を延長させてはならない。デイビット・ファラガットが10代前半で拿捕したイギリス軍艦の指揮を執り、トーマス・エジソンが12歳で新聞を発行し、ベン・フランクリンが同じ年齢で印刷工に弟子入り[そして、今日のイェール大学の先輩の首を絞めるような勉強をする] できたとしたら、自分の子どもに何ができるかは分からない。長い人生と公立学校の塹壕での30年間を経て、私は天才は土のようにありふれていると結論づけた。私たちが自分の才能を抑圧しているのは、教育を受けた男女の集団を管理する方法をまだ見つけ出せていないからに他ならない。その解決策はシンプルで素晴らしいものだ。彼ら自身に管理させるのだ。



*「」、 [ ] は原文。( ) は翻訳者。


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