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自由主義 vs.社会主義

https://satanslibrary.org/English/Liberalism_V_Socialism_YogSothoth6115.pdf

By YogSothothIsTheGate

ドイツ少女同盟[BDM]の少女たちが、「国家は自らを助ける!」をモットーに、ドイツ国民の冬季救済[WHW(Winterhilfswerk。冬季援助活動….1933年から1945年までのナチス・ドイツで、社会福祉組織である国家社会公共福祉(NSV)が年次で実施した貧困者への慈善募金活動)]の資金調達の為にドレスデンで会合している。[ハンスヨルグ・マエンネル著「Politische Fibel(政治入門)」第16版[1940年]より、ハディング・スコットが翻訳[若干の修正を除く]。出典はこちら。

ハディングの解説:

「この章は、一般に社会主義という言葉に深い嫌悪感を抱いているアメリカの読者にとっては難しいだろうが、それを超えて考えることができる読者にとっては、より大きな収穫となるはずである。

国家社会主義の実践は、マルクス・レーニン主義のような意味での社会主義ではなく、国家が企業の所有権を持つことはなかった。第三帝国の社会主義は、現在の教科書的な社会主義の定義に当てはまらない。しかし、国家は、社会全体の利益の為に必要に応じて救済を規制し、大規模な社会事業を実施した。

ここでいう「自由主義」とは、主に19世紀の自由至上主義であり、そこから発展したのがマルクス主義であるとマエンネルは説明する。国家社会主義は、真の民衆型社会主義として、自由主義にもその落とし子であるマルクス主義にも反対する」。



自由主義と社会主義は、人間個人と共同体[民族(people)]との関係を問う上で、対立する二つの世界観である。

自由主義とは、個人の集合体である共同体[民族]ではなく、個人が最も重要な価値を体現しているという世界観である。[自由主義(Liberalism)、ラテン語のliber=free(自由)から]自由主義は「個人主義」とも呼ばれる。

自由主義は、集団に対して個人の自由を要求する。個々の人間は可能な限り無制限に「発展」することが望ましい。法的な障壁は、民族全体が危険に晒される場合にのみ存続する。「誰もが自分の隣人である」。自由主義の根源は、唯物論と利己主義にある。自己追求であり、自己規律ではない。共通の利益よりも自己の利益が優先される。- 従って、自由な人間は、常に経済のことを第一に考える。「経済は運命である」[ユダヤ人で戦後の大臣ラテナウ]。経済においては、誰もができる限り自由に、つまり無制限に発展できるようにしなければならない。国家は経済に介入しないことが義務付けられている。国家は従属的な役割を果たすべきである[「夜警国家(ドイツ。国家の任務が対外的防衛・国内治安維持など最小限の夜警的役割に限定されている国家)」]。すべてがどのように運営されようとも、それは許されるべきものである。サービスではなく利益が前面に押し出される。金銭的な成功が、人間の評価にとって決定的なものとなる。従って、自由主義は常に結果として階級闘争を伴う。- 「有能な人材への明確な道筋」が求められる。しかし、勝つのは有能でまともな者ではなく、むしろ、残忍で良心のない者である。自由主義は必然的に資本主義を生み出し、生産者の搾取に繋がる。ユダヤ人は勝利したのだ!その為、この悪質な教義もまた、特にユダヤ人によって提唱されてきた。自由主義は常に「選ばれし者」の道具であった。ユダヤ人は、自分が支配し搾取したいと望むすべての民族に、意図的に自由主義の毒を垂れ流したのである。特にユダヤ人と同調したのは、自由主義を創設し、それを最も発展させたイギリス人であった。自由主義の最も破壊的な症状は、イギリスの産業都市に因んで「マンチェスター主義」と呼ばれている。イギリスでは、自由主義は最終的に、一部の富裕層による地球の四分の一以上の野放図な支配であるプルトクラシーに至った。

1789年のフランス革命では、自由主義[自由、平等、友愛]が主流となった。これ以降、自由主義は世界全体、19世紀全体に影響を与えた。ドイツでは、1813年の解放戦争で目覚めた民族意識と結びついて、矛盾したブルジョア的な「国民自由主義」となった。しかし、次第に自由主義の腐敗効果が明らかになった。論理的な整合性を持って自由恋愛を宣言し、結婚と宗教の廃止、死刑の廃止を要求し、人々を保護するあらゆる取り決めと規制の廃止を要求した。国家はますますその力を一つの方向へ集中させることができなくなっていった。個人主義は、無数の政党への派閥化をもたらした。自由主義は、あらゆる意見を許容し、「客観性」を提唱するが、それは結局、優柔不断(indecision….不決断、躊躇)と信念の欠如に繋がる。- 「民俗(folkdom….民間の風習や習慣)」との結びつきは、次第に解消されていく。民族は単なる偶然、個人の外形的な総和とみなされる。自由主義者は「民族」という概念をどう考えるべきか分からない。彼は経済的にしか考えず、国家主義的には考えない。個人はともかく、「人間性」という曖昧な概念しか認めない。このような見解の帰結が国際思想なのである。マルクス主義もまた、自由主義の申し子である。

自由主義の究極の論理的帰結は、アナーキー[ギリシャ語=政府の欠如]であり、すなわち「誰もが自分の望むことは何でもできるし、しなくてもよい」「望むことは何でも許される」という原則の実現である。個人の誤った自由は、自制の欠如に繋がる。国家は「廃止」される。その結果、最終的には、万人の万人に対する戦争、ライセンス、混沌、破壊、ボリシェビズム(Bolshevism….広義においては、マルクス主義、共産主義と同義)となる。この運命から我々のリーダーはドイツ民族を救った。我々国家社会主義者は、この有害な教義に対抗して、社会主義を提唱する。

社会主義とは、共同体[民族]が最も重要な価値を体現しており、個人は民族の一員であり、民族を支えなければならないという見解である。[社会主義(Socialism)、ラテン語のsociare=結合する、団結する、から。]

アドルフ・ヒトラー:「後世を、ひいては人種を犠牲にしてまで罪を犯す自由はない。」

社会主義は、民族の自由を要求する。- 従って、社会主義者は、経済ではなく常に民族を第一に考える。

純粋な経済的思想は、民族を多くの利益集団に引き裂くが、純粋な政治的思想は、民族を一つにする。従って、国家社会主義は経済よりも政治を優先させることを要求する。経済は、民族と国家に奉仕すべきであり、その逆ではない。

社会主義の最も重要な原則は、私的な利益の前に共同の利益があるということだ。確かに私的な利益は当然であるが、それは常に民族全体の幸福に従わなければならない。もし誰もが自分のことだけを考えるなら、民族は破滅に向かい、それに伴って個人も破滅する。しかし、もし誰もが共同体のために身を捧げるなら、民族は繁栄し、それに伴ってすべての個人もまた共同体の一員として繁栄する。

自由主義者は「私」だけを考える。一方、社会主義者は、「私たち」について考える。自由主義の最も制限のない自由は、国家の不自由をもたらし、ひいてはすべての個人の不自由をもたらす。すべての民族同志の自発的な自己従属は、国家の自由、ひいてはすべての個人の自由に繋がる。民族の利益の前では、あらゆる私利私欲は無意味である。

「自分自身にとって偉大であっても、全体の前では無視できる、しかし、全体の最小部分として、あなたは重要である。」
- フリードリヒ・リュッケルト

それぞれが民族の為に成果を挙げれば挙げるほど、人格は偉大になる。民族に縛られた人格は、自由主義の細分化された「個人」とはまったく異なるものである。真の社会主義は、常に同時に順位序列でもある。それは常にリーダーシップ[Führertum(ドイツ語でリーダーシップの意)]と結びついている。従って、「社会民主主義(Social-Democracy….従来の社会主義実現に必要とされた暴力革命とプロレタリア独裁(共産主義)を否認し、議会制民主主義の体制を維持したまま社会主義を実現しようとする思想と運動の総称)」という言葉嘘であり、自己矛盾である。

民主的な自由主義の概念は、交互に平等な人間の一人一人が「個人」として、義務の欠如に対する自由の権利を持つというものである。一方、社会主義者の貴族的な概念はこうである。人間は不平等であり、血で結ばれている。一人一人の価値は、民族の為の功績に比例する。[例。比較:民主的自由主義者は、民族をレンガの積み重ねと見做す。多くの等しい大きさのレンガが互いに交差して横たわっている。国家社会主義者、民族を一件の家として見ている。家全体は、そのように、すべての石よりも高い価値を持つ。異なる大きさのそれぞれの建築石は、家の中で重要性を持っているが、それは家の一部としてだけである。]

アドルフ・ヒトラー:「自分の民族を愛する者は誰でも、その為に払う用意のある犠牲によって、特にそれを示す。」

社会主義は犠牲を厭わない。国家社会主義運動、特にSAの闘争は、国家にとって唯一無二の大きな犠牲であった。最大の犠牲とは命を投げ出すことである。SAの同志からなるストーム連隊全体が、最高司令官ホルスト・ヴィッセルを先頭に、この偉大な犠牲を払ったのである。彼らは皆、「我々の隊列の中で精神的に行進している」。彼らは我々にとって静かな思い出であり、聖なる遺産であり、それらに値することを示す重大な義務である。我々は戦死したSAの仲間を称える。自由主義者はそれを理解できない。共産主義ユダヤ人のトラーは言った、「英雄の理想ほど愚かなものはない。」このユダヤ人は、人が民族の為に命を捨てるという事実を理解することができない。我々国家社会主義者は、これに対して、個人が早く死ぬか遅く死ぬかどうかは無関心であるが、個人が立派に生きて死ぬか不名誉に死ぬかは無関心ではないと述べている。重要なのは、一個人の取るに足らない同志の寿命ではなく、むしろドイツ民族の寿命なのだ!

「ドイツは、たとえ我々が死んでも、生きなければならない!」社会主義は、このように常に英雄的思想と結びついている。

すべての生産的な民族同志は、ドイツ民族の共同体に属している。民族共同体から肉体労働者を排除したのは自由主義ブルジョアジー(中産階級)の罪であった。その結果、「労働問題」が発生した。

社会主義とは、肉体労働者を国家に受け入れることを要求するものである。肉体労働者は奴隷にされ、軽蔑されていた。彼は尊敬され、平等の権利を持つべきである。彼は経済の利益から排除されていた。彼は再び、経済生産に占める自分の正当な分配を受けるべきであり、「公平」を得るべきである。彼は根無草にされたが、今では祖国と結ばれている。もし労働者が再びドイツの一部を所有するなら、彼はより早くドイツに専念するようになるだろう。[例。フォム・シュタイン男爵の農奴解放運動と、1813年の解放運動。]

アドルフ・ヒトラー:「ドイツの国家知識人たちは、我々は根本的にはマルクス主義の一変種に過ぎず、おそらくは単に偽装されたマルクス主義者や[国際的な]社会主義者に過ぎないのではないかという疑念を密かに何度も囁き合った。今日に至るまで、これらの頭脳は、社会主義とマルクス主義の違いを理解していなかった。」

ヨーゼフ・ゲッベルス:「社会主義とは権利である。それは贈り物としてではなく、義務として与えられるものである。」

国家社会主義のみが真の社会主義を意味する。マルクス主義とブルジョア愛国主義は、あらゆる真の社会主義の不倶戴天の敵であった。マルクス主義と社会主義は、嘘つきの反動主義者が主張するように、同じものではない。マルクス主義は社会主義に対する裏切りである。ユダヤ人カール・マルクスは、ユダヤ人社会の為に社会主義を改竄した。

国家社会主義は、同様に、自由主義ブルジョアジーの社会福祉的な美辞麗句(rhetoric….レトリック。実質を伴わない表現上だけの言葉。表現の巧みな言葉)に反対する。

「社会的」[この意味での]とは、同情や恐怖によって動機付けられ、施しによって労働問題を解決しようとする試みである。しかし、労働者階級は、贈与、福祉サービス、慈善事業によって民族共同体に統合されることは決してない。この統合は、上からの行為によって起こるのではなく、下からの正当な要求によってのみ起こる。我々は「社会的」ではなく、「社会主義者」なのだ!福祉サービスだけでは十分ではない。労働問題の解決の前提条件は、民族全体の意見の変化である。ドイツの冬季援助活動(Winterhilfswerk)は、貧しい人への施しではない。むしろそれは、最も貧しい人々、ドイツの最も忠実な奉仕者である同志たちの為の、国家全体が行う強大な犠牲である。

ドイツの肉体労働者は、国家社会主義革命によってその権利を獲得した。社会主義の祖国は、アドルフ・ヒトラーの大ドイツ帝国である!



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