科学的展望 バートランド・ラッセル著 - 第15章 科学的社会における教育 251ページ -

THE SCIENTIFIC OUTLOOK, BERTRAND RUSSELL, 1931
 - CHAPTER XV    EDUCATION IN A SCIENTIFIC SOCIETY -
 

教育
ラッセルは、科学独裁政権の場合の教育統制の可能な手段についての考えを提示している。これは、 「社会に対する科学の影響」 の第二章 「科学技術の一般的効果」 からの抜粋である: [170]

このテーマは、科学独裁政権のもとで科学者によって取り上げられるとき、大きな進歩を遂げるだろう。アナクサゴラスは雪は黒いと主張したが、誰も信じなかった。未来の社会心理学者たちは、雪は黒いという揺るぎない確信を抱かせるためのさまざまな方法を、多くの小学生を対象に試すことになるだろう。やがてさまざまな結果が得られるだろう。第一に、家庭の影響が邪魔をするということ。第二に、10歳までに洗脳 (indoctrination….特定の思想や価値体系を正しいものとして、合理性や科学的分析を無視して教え込むこと) を開始しない限り、大したことはできないということ。第三に、詩を音楽に合わせて繰り返し抑揚をつけることは非常に効果的である。第四に、雪は白いという意見は、奇抜さに対する病的な嗜好を示す為に保持されなければならない。しかし、私はこう予想する。将来の科学者たちは、これらの格言を正確にし、子どもたちに雪は黒だと信じさせるのに一人当たりいくらかかり、濃い灰色だと信じさせるのにいくらかかるかを正確に発見する必要がある。この科学は熱心に研究されるだろうが、それは厳格に支配階級に限定されるだろう。民衆は、自分たちの信念がどのようにして生み出されたかを知ることは許されない。この技術が完成すれば、一世代にわたって教育を担当してきたすべての政府は、軍隊や警察官を必要とすることなく、臣民を確実に統制できるようになるだろう。このような政治家の楽園を作ることに成功した国は、まだ1個しかない。科学技術の社会的効果は、すでに多くの重要なものがあり、将来はさらに注目されるようになるだろう。このような影響の中には、当該国の政治的・経済的性格に左右されるものもあれば、その性格がどのようなものであれ、避けられないものもある。

彼は彼の先見的なシナリオをさらに詳細に推し進め、同書の第三章 「寡頭政治における科学技術」 [171] では、例として次のように述べている:

将来、独裁者がいるところでは、このような失敗は起こらないだろう。食事、注射、命令などが幼少期から組み合わさって、権力者が望ましいと考えるような性格や信念が生み出され、権力者に対する真剣な批判は心理的に不可能になる。たとえすべての人が悲惨であったとしても、政府がそうだと言うので、すべての人は自分を幸せだと信じるだろう。

Wikiより抜粋

科学的社会における教育

教育には2個の目的がある。1個は心を形成することであり、もう1個は市民を訓練することである。アテネ人は前者に集中し、スパルタ人は後者に集中した。スパルタ人が勝利したが、アテネ人は記憶に残った。

科学的な社会における教育は、イエズス会が提供した教育に準えて考えるのが一番だと思う。イエズス会は、世の中の普通の人になるべき若者たちにある種の教育を施し、イエズス会の会員になるべき人々には別の教育を施した。それと同じように、科学的な支配者たちは、普通の男女にはある種の教育を、科学的権力の保持者になる人々には別の教育を提供する。普通の男女は、従順で、勤勉で、時間を守り、思慮がなく、満足することが期待される。これらの資質のうち、おそらく最も重要なのは満足感であろう。それを生み出す為に、心理分析、行動主義、生化学のあらゆる研究が導入されている。子どもたちは幼少期から、最も固定観念を生じにくい方法で教育を受ける。ほとんどの人が普通で幸せで健康な少年少女になる。彼らの食事は親の気まぐれに任せるのではなく、最高の生化学者が推奨するようなものになるだろう。彼らは屋外で多くの時間を過ごし、絶対に必要以上の書物学習は与えられない。そうして形成された気質には、訓練軍曹の方法か、あるいはボーイスカウトに採用されているよりソフトな方法によって、従順さが課されるだろう。少年少女は皆、幼い頃からいわゆる「協調性」、つまりみんながやっていることをそのままやることを学ぶ。子どもたちの自主性は失われ、反抗的な態度は罰せられることなく、科学的に訓練される。彼らの教育は終始マニュアル化され、学生時代が終われば職業を教えられる。どの職業を採用するかを決定する際、専門家は彼らの適性を評価する。正式な授業は、それが存在する限り、映画やラジオを使って行われ、一人の教師が全国のすべてのクラスで同時に授業を行うことができるようになる。もちろん、このような授業を行うことは、支配階級の構成員の為の高度な技術を要する仕事として認識される。現在の学校教師の代わりに地域で必要とされるのは、秩序を守る女性だけであるが、子どもたちがお行儀よく育っていれば、この推定される人のサービスをほとんど必要としないことが期待される。

一方、支配階級の一員となる運命になる子どもたちは、まったく異なる教育を受けることになる。何人かは生まれる前に、何人かは生後3年の間に、そして何人かは3歳から6歳までの間に選抜される。知性と意志の力を同時に発達させる為に、最もよく知られた科学がすべて応用される。

優生学、胚の化学的および熱的処理、幼児期の食事療法は、可能な限り高い究極の能力を生み出すことを目的として行われる。子どもが話せるようになった瞬間から科学的観念を植え付け、多感な幼児期を通じて、無知で非科学的な人々との接触から子どもを注意深く守る。幼児期から21歳になるまで、科学的知識を教え込まれ、12歳以上になると、その子が最も適性を示す科学に特化する。同時に身体的な頑丈さも教え込まれる、裸で雪の中を転げ回り、24時間絶食し、暑い日に何マイルも走り、肉体的な冒険には果敢に挑み、肉体的な苦痛を味わっても文句を言わないよう励まされる。12歳以上になると、彼は自分より少し若い子どもたちをまとめるように教えられ、そのような子どもたちの集団が彼の指示に従わなければ、厳しい非難を受けることになる。自分の崇高な運命を常に意識させられ、自分の秩序に対する忠誠心は自明のものとなり、それを疑うことなど思いもよらないようになる。こうしてすべての青少年は、3個の訓練を受けることになる、すなわち、知性、自制心、他人に対する統率力である。もし彼がこの3個のどれかでも失敗すれば、一般労働者の仲間入りをするという恐ろしい罰則を受けることになり、教育面でも、おそらく知性面でも、自分よりはるかに劣る男女と一生付き合わなければならなくなる。この恐怖の刺激は、ごく少数の支配階級の男女を除いて、すべての産業を生み出すのに十分である。

世界国家と自分たちの秩序に対する忠誠心という一点を除けば、支配階級の人々は、冒険的で自発性に富むことを奨励されるだろう。科学技術を向上させ、絶え間ない新しい娯楽によって肉体労働者を満足させることが、彼らの仕事であることが認識されるだろう。すべての進歩の鍵を握る子どもたちは、過度に飼い慣らされてはならないし、新しい発想ができないような訓練を受けてはならない。肉体労働者になることを運命付けられた子どもたちとは異なり、子どもたちは教師と個人的に接し、教師と議論することを奨励される。できることなら自分の正しさを証明し、そうでない場合は自分の誤りを潔く認めるのが彼の仕事である。しかし、支配階級の子どもたちであっても、知的自由には限界がある。科学の価値を問うことも、人々を肉体労働者と専門家に分けることに疑問を持つことも許されない。詩は機械と同じくらい価値があるのではないか、恋愛は科学研究と同じくらい良いものなのではないか、などと戯れることも許されない。もしそのような考えが冒険心のある者に起きれば、それは苦痛に満ちた沈黙の中で受け止められ、聞かなかったことにされるだろう。

このような考えを理解できるようになれば、支配階級の少年少女には、公共の義務に対する深い感覚が植え付けられるだろう。彼らは、人類は自分たちにかかっており、特に自分たちより下の恵まれない階級に対して博愛に満ちた奉仕をする義務があると感じるようになる。しかし、そのような人たちが小心者になると思われてはならない。彼らは、誰もが心の中で信じていることを明確な言葉にするような、あまりに前兆のある発言は、軽蔑的な笑いで追い払うだろう。彼らのマナーは簡単で心地よく、ユーモアのセンスは揺るぎない。

最も知的な支配階級の教育における最新の段階は、研究の為の訓練である。研究は高度に組織化され、若者はどのような研究をするかを選ぶことは許されない。もちろん、彼らが特別な能力を発揮できるような分野の研究が指示される。多くの科学的知識は、一部の人以外には知らされない。聖職者クラスの研究者のために用意されたアルカナがあり、彼らは忠誠心と脳の組み合わせの為に慎重に選ばれる。研究部門のトップに立つ人たちは年配で、自分たちのテーマの基礎は十分に知られていると考えて満足するだろう。基本的なことについての公式見解を覆すような発見は、もしそれが若者によってなされたものであれば、不評を買い、軽率に発表されれば評判を落とすことになるだろう。基本的な革新が起こった若者は、新しい考えを好意的に見るように教授を説得しようと慎重に試みるが、それが失敗すれば、自分自身が権威ある地位を得るまで新しい考えを隠し、その時にはおそらく忘れているだろう。権威と組織の雰囲気は、技術研究には非常に有利であるが、例えば今世紀の物理学に見られたような破壊的な革新にはやや不利である。もちろん、知的には重要ではないが、政治的には神聖なものとみなされる公式の形而上学があるだろう。長期的には、科学の進歩の速度は低下し、発見は権威を尊重することによって失われるだろう。

肉体労働者については、真剣に考えることをやめさせ、できるだけ快適にし、労働時間を現在よりもはるかに短くする。生活に困窮する心配も、子どもたちに不幸がふりかかる心配もない。労働時間が終わるとすぐに娯楽が提供され、それは健全な歓喜を引き起こし、そうでなければ幸福を曇らせるような不満の考えを防ぐために計算されたものである。稀に、社会的地位を決める年齢を過ぎた少年少女が、支配者たちと知的水準が同等と思われるほどの顕著な能力を示すことがある場合には、深刻な考慮を必要とする困難な状況が生じる。もしその若者が、それまでの仲間を捨て、支配者たちに心から身を委ねることに満足するのであれば、適切なテストの後、昇進させることができるだろう。しかし、もし彼がそれまでの仲間たちと遺憾な連帯感を示すのであれば、支配者たちは不本意ながら、彼の不躾な知性が反乱を広げる時間がないうちに、彼を致死性の部屋に送り込む以外になす術はないと結論づけるだろう。これは支配者たちにとって痛みを伴う義務であろうが、私は支配者たちがそれを実行することを躊躇うことはないと思う。

通常の場合、十分に優秀な血統を持つ子どもは、受胎の瞬間から支配階級に入ることができる。なぜなら、2個の階級の扱いが異なるのは、単に生まれた瞬間からではなく、この瞬間からだからである。しかし、子どもが3歳になるまでに、要求される水準に達していないことが明白になった場合、その時点でその子どもは格下げされる。その頃には、3歳児の知能をかなり正確に判断できるようになっているものと思われる。しかし、疑わしいケースは6歳まで注意深く観察され、その時点で、ごく稀なケースを除いて正式な判断が可能になると思われる。逆に、肉体労働者から生まれた子どもは、3歳から6歳までの間であればいつでも昇格する可能性があるが、それ以降の年齢で昇格するケースは極めて稀である。しかし、支配階級が世襲化する傾向が非常に強く、数世代後には、どちらの階級からももう一方の階級に移る子どもはそう多くはないだろう。品種改良のための発生学的方法が、支配階級には適用され、それ以外の階級には適用されない場合は、特にこの傾向が強い。このようにして、生まれつきの知能に関する2個の階級の溝は、ますます広がっていくだろう。支配者層は、面白くない肉体労働を引き受けたり、肉体労働者の管理から得られる博愛精神や公共心を発揮する機会を奪われたりすることを望まないだろうから、これは知性の低い階級の廃止には繋がらないだろう。