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自分なりにやれるだけのこと精一杯やって、この世界を生ききろう。

5月2日。今年もこの日がやってきました。

私が10代の頃、心酔し神格化する勢いで応援していたhide(X JAPAN)の命日です。

いやぁ・・・あれから25年だって?!信じがたい。。。彼がこの世での生を終えた年齢を超えるのが怖い!!なんて思ってた私よ、もう10歳以上も年上になってしまったぞww

毎年この日は時間の許す限りhideでいっぱいの1日を過ごすことに決めてます。彼の曲を聴くことはもちろん、亡くなる直前に新曲のプロモーションで日本に戻ってきた時にhideが受けたインタビューの1つに大好きなものがあって、その雑誌のインタビューを必ず読んだり。結果的にこの時期に受けた雑誌のインタビューは全て、追悼特集になってしまったんだけど、この雑誌の編集長だった羽積さんのメッセージに、その時はもちろん数年後に社会人になってからも何回助けられたことか。。その他の雑誌や写真集やらグッズは全て実家に置いてあるけど、そろそろ整理しないとなあ・・・と思いながら、タイミングがわからず、そのままにしてしまってます。


今日は出先から書いてるので数年前の5月2日の写真をば。


今年は、転職前のお休み期間ということもあり、1年ぶりに築地本願寺(お葬式が行われた場所)に行って、隅田川も散歩してきました。


雑なぼかしでスマン!



今でもこうやって記帳台を残してくれてるんですよ。本当に本当に、ありがたい。。



25年前のお葬式の日は、本願寺から勝どき橋を曲がって、今は隅田川テラスと名付けられたその場所から川沿いにずーっと、長い長い献花の列(3.5kmとかあったらしい)が途切れることなく続いてました。私はお葬式前夜から徹夜で並び(ごめんなさい関係者の方たち。若気の至りなので許してください。。)1度献花を終えた後、友人達と合流してもう1度その列に並んで。ものすんごい暑い日で、うっかり日焼け止めを塗り忘れたせいで、灼熱の太陽に照らされ続けた胸元が赤く日焼けしてしまったことを今でも思い出します。


奥の奥の奥ーーーの方まで、川沿いに何時間も並び続けたなー。そりゃ日焼けするわな。



今日も本当にいいお天気でした。25年前と違い、日傘持参で日焼け止めばっちり塗り込みましたw


ここ最近ずっと強風の日々だけど、あの日も早朝から強い風が吹いてたんですよね。明け方にhideのオールナイトニッポンRを聞き終えて5時過ぎに眠りにつき、10時位に起きた時にはもう世界が一変していたなんて、知る由もありませんでした。

夕方、hideのサイトにアクセスしようとしたら、何故か開けない。ん?サーバーエラーかな?と思うも、何度かアクセスを試みてやっとつながった、当時Webサイトで主流だったBBS(掲示板)に並ぶ「嘘・・・」「ウソだよね?」「絶対信じない」という大量のコメント。誰も確信を突くワードは書いてなくて、でもなにかとてつもなく悪いことが起きたことだけはわかり、ラジオのFM局にひたすら電波を合わせ、Bay-fmの夕方のニュースでその事実を知りました。アナウンサーの言葉も声色も、今でもハッキリと思い出せる。

後から母に聞いたらその時私は「お母さん!hideちゃんが死んじゃった!!」と絶叫した後、何かにとりつかれたかのように「まずあの子に電話して、、いや、あの子にはすぐに会いに行かなきゃいけない、水とお菓子買って、あれ持って・・・」とうわごとのようにひとり言を発しながら休む間もなく動き続けていたらしい。母に「しっかりしなさい!!」と言われたことは覚えてるけど、自分はこんなにも正気で冷静なのにどうしてお母さんそんなこと言うんだろう?と不思議に思ったぐらい。上京したばかりの1人暮らしの友人に電話したら、案の定最悪の選択もしてしまいそうな勢いでパニックになっていて、すぐ会いに行くからと言ったものの母に「はっきり言って、今の貴方は普通じゃない。とにかく、一晩待ちなさい。」と説得されて、一晩中その友達や別の友達と交互に電話をしながら夜を明かしたのも、まるで昨日のことのように思い出せる。深夜に浸かった湯舟の温かいお湯が全身にじわじわ広がっていく感覚が忘れられなくて、湯舟に浸かるとあの日のことを思い出してしまうからそれから10年位、湯舟につかることができなかったな。。(今はむしろ毎日でも湯舟に浸かりたいw 温泉は相変わらず苦手だけど。)本当に不思議なんだけど、25年もたってるのに、25年前の5月2日からお葬式のあった5月7日までのことは、残酷な位細かくハッキリと思い出せるんですよね。。目に映った景色もその日の天気や風の匂い、言葉も気持ちも全部。もちろん、年月を経ているので美化されてたりずれてる部分は多少はあるだろうけど。


私の10代はhideが全てでした。自分というモノが全くなくて、完全に依存状態だった。だから、彼が亡くなってから本当に、これからどう生きていけばいいか全くわからなかったんですよね。自分の意思で動いたことがゼロではないにせよ、全部彼の言葉を指針に生きてきたから、その指針を失ってしまったらどうしたら良いかわからず、生きる意味を見出せなかった。ただ、だから私も自分の生を終わらせるというのはおかしい、それは何かが違うという強い確信があったんです。そう思えていたのは、前述した私が大好きな雑誌の編集長だった羽積さんのこんな言葉。

今の悲しみの大きさから、HIDEの思い出の中に逃げ込もうなんてことを考える前に、まずこの世界で自分が自分なりにやれるだけのことをやろう。HIDEは常にそうしてきたし、そうじゃない人をHIDEは認めないと思うし、そのことはきっと、HIDEのことを大好きだったみんなが、一番よく解ってることだと思う……。

「FOOL’S MATE 7月号 P.11より」


「まずこの世界で自分が自分なりにやれるだけのことをやる」
そんなの当たり前じゃん!と思う人たちも沢山いると思うし、私の人生ほんとしょーもないというか何を成し遂げたわけでもなく、なーんにも褒められた人生じゃないけど、私はあの日以来毎年、<この1年、自分なりにやれるだけのことをやったか?>と5月2日に問いかけることにしています。2019年~2022年の秋位までは、コロナとか関係なく個人的にもがきまくっていたので、その問いかけに"YES"と言えず、本当に苦しかった。。でも、今日は5年ぶりに"(まだ本調子ではないけど半分くらいは)YES"と報告ができたように思います。いやぁぁぁあ!私頑張ったよhideちゃん!!(笑)


相変わらず推しは途切れない人生だけど、hideのおかげで誰かや何かに過剰に依存して生きる人生からは脱せられたような気がします。まずは自分と、身近にいる日々リアルな繋がりがある人達に関係することが最優先。依存は程度の差こそあれそれ自体は悪ではないと思う。だけど私には今のこの生き方が合っているし、精神的にもすごく楽になりました。とはいえ、私のモノの考え方や人との接し方、大切にしたいことのベースは全て、hideに教えてもらったことだから、私はある意味今でもずっと、hideからもらったモノや記憶に依存しながら生きてるんだろうなとも思います。正直どこかそれは贖罪のような気持ちに近いかもしれない。もらうばかりで何も返せなかったことへの、ただただありがたい気持ちと申し訳ない気持ち。自分なりにやれるだけのことをやってこの世を、自分の人生を、生ききることが超絶微力ながらせめてもの恩返しになるんじゃないかと、どこかそう信じて生きている気がします。

でも、最近、TOMORROW X TOGETHERのファンになって、何人かMOAの方とお話して思ったことがあるんですよね。ああ、あの頃の私みたいに彼らが全て!位の勢いで没入して応援することは、もう私には難しいのかもしれないなあって。なんか淋しいなあ・・・という気持ちが拭えない時があるのも事実です。Twitterで毎日のようにトゥバ絡みの推し事に勤しみ、投票やスミンを頑張っていたり、MOA友と繋がって語らって・・・時には推しに対して何かちょっと思うことがあって悩んだり、彼らのことを考えたり想い過ぎて苦しくなったり・・・。今の私は、推しのことで感情が揺り動かされることがないわけではないけど、あっても本当に一瞬なんですよね。noteを書きたいなと思ったきっかけも、良いこともそうでないこともすぐに忘れてしまったり、余韻が消えてしまうからせめて文字にすることで、この一瞬の揺らぎを深く感じて向き合えるんじゃないかという期待もあり。で、何が言いたいんだ?って感じですが、推しのことをできるだけニュートラルに見るようにしたいという気持ちはあっても、私は結局自分のフィルターを通して受け取った推しの存在を自分の中に宿して間接的に依存して今でも生きてるんだろうなあと。人はなかなか変われないですね。


来年の5月2日も、推しを心に宿して生きられる幸せを今日のようにまた感じつつ、自分なりにやれるだけのことをやったぞ!と納得感をもって言えるように、明日からも頑張ろうと思います。

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