見出し画像

なろうとする人、あろうとする人

シンメ、シンメトリー。私はジャニーズにおけるシンメというものに対しての理解が浅いタイプの人間だと思う。並んだときの絵力の強さとか歌声の相性だとかそういうパフォーマンスの面においてはシンメは映えて好きだけど、それを超えた心理的な意味でつながる"シンメ"をどう受け取っていいかいまだによく分からない。

菊池風磨くんのシンメは中島健人くん。通称"ふまけん"だ。

「シンメって、ジャニーズ以外では使わない独特な言い回しなんだけど、僕はそこにプライドを持っているし、いい関係だと思う。僕にとってのシンメとはというと、中島以外いないと思ってる」

ジャニーズにはシンメと呼ばれる二人組は他にもいる。私が以前に別のグループを応援していたときの担当にもシンメはいたが、正直ここまで"シンメ"という概念について頭を悩ませることはなかった。しかし、風磨くんのことを応援しているとシンメというトピックに何度も何度も何度も直面する。そのときはなぜか普段使っているものとは別のエネルギーを使用しないと消化できない。修行なのかとすら思う。お互いのことはお互いにしか分からないなんて、他のコンビにだっていえるはずなのに、それだけではない"何か"が作用してややこしいことになっている。

そんなこんなでここ何年か考えることをすっかり放棄してしまっていたが、2019年はmeijiガルボCM、極限合宿、Wink up表紙、Wink upベストコンビ大賞、an・anバディ特集など、例年に比べ公式からの提供が多く、ふまけんについて考える機会が必然的に増えていった。

なぜ今年になってふたりについての記事を書いているかというと、ただ供給があったからというわけではなくて、ふたりで表紙を飾ったWink upで健人くんがこう答えていたのを見たからだ。

朝起きたら体が入れ替わっていました、何する?「菊池は大学時代の友人の話をよくしてるから、彼らに会ってみたい。旅行もするみたいだから彼らと一緒に旅行して、そこにまじって彼の考えの源を知りたい」

風磨くんが「シンメ」と表現する傍ら、健人くんは"相関図"の企画に「面白い人」と書いたり「ふたりの関係をひとことで表すなら?」に「ガルボ。オレたちはチョコのように甘いから(笑)」などタイムリーな話題を反映した回答をしていたりと正直なところどう思っているのかあまりよく分からないことが多かったが、友人との旅行にまじって「彼の考えの源を知りたい」という言葉によって道が開けた気がした。

私は健人くんのことを"なろうとする人"なのかなと思っている。自分の存在を創っていく人。なりたい自分に向かって進んでいく人。最近だと『京成スカイライナー』のCMは、まさしく健人くんが"Sexy Zoneの中島健人"を確立してきた先にあるものだと思う。自分の理想や目標が明確に思い描けていれば邁進できるけど、正解がないものや実態の分からないものに対してはどうしたらいいか分からなくなってしまうような気もする。

一方で風磨くんは"あろうとする人"。自分の存在を見つけていく人。どうなるかではなく、どうあるか。そのために選択していく人。自分がこれまで触れてきたものや出会ってきたものを見つめ直したり、関係性や連続性の中に意味を探し出しながら前に進む。自分から場所や人、時間などを切り離して考えることはほとんどしないような。概念として健人くんがデジタルだとしたら、風磨くんはアナログのような感じもする。

昨年の『ゴチ』の最終戦や極限合宿のラフ会で普段見せないような表情で言葉をボロボロと溢れさせている健人くんを見ると、この人はいつも気を張りながら中島健人になろうと努めている人なんだと実感する。こういうところを見たときに人間らしさを感じるけど、恐らく、あまり見せないようにしてきた人だから、そこばかりに触れてしまうとなんだか装備品を剥がしてしまうようで気が引けてしまう。だから「相手のことを一言で宣伝するとしたら?」という質問に風磨くんが「テレビのままですよ」という言葉を選んだり、本人のことを「中島健人というブランド」と称してくれるのは彼の救いになっているのではないかなと思う。し、そう思いたい。

そんな健人くんはベストコンビ大賞での対談で極限合宿の完コピ挑戦について「大きな敵を倒すために共闘することで絆って強まるじゃん」と話していた。風磨くんのほうはこうやって人と「共闘する」ような経験やその意味を分かち合えたときに救われているのかな。

私はどちらかというと健人くんに近い人間だと思う。健人くんのように何かになることを極めたわけでも、風磨くんのように自分らしさを追求して生きているわけでもないけど、「なろうとする」と「あろうとする」だとしたら、圧倒的に「なろうとする」ほうだ。中島健人になろうとする人、菊池風磨であろうとする人。生き方として共感する部分があるのは健人くんだけど、風磨くんに惹かれるのは私の人生の中には風磨くんのような捉え方や経験がないからだろう。どちらが良い悪いという話ではなくて、根本的に世界の見え方が異なる。

そして「宿命のふたり」というキャッチコピーが付いたan・anのバディ特集。「宿命」だとか「運命」という言葉はこれまで何度も目にしていたはずなのに、ここに来て突然、「宿命」という言葉をすんなり飲み込むことができた。なぜこのタイミングなのかは未だに分からない。

私が思考を止めていた間に本人もいつからかこの宿命を楽しめるようになっていて、かつ、そう言えるようになっていた。

ベストコンビ大賞エントリーの際に風磨くんが「ボクと中島が対でいる世界。それがふまけんです」とコメントしていた。(ま~~たそういうこと言って!)と思っていたが、どれだけ言葉を紡ごうとしてもこれに代わる言葉が見つからない。それ以上も以下もない。私がいろいろ考えてもどうにもならないのだ。それでもこの件について考える機会は幾度となくやってくるし、答えなんてないのに考えようとしてしまう。もうそういうものなんだとようやく納得した始めたのと、私が"ふまけん"というものに関してひとつ理解が深まるのは、風磨くん側より健人くん側の考えを知ることができたときなのかもしれないと新たな知見を得た一年だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?