歴史の教科書に載る方法
人間誰しも自分も教科書に載ってみたいと考えたことがあるだろう。私だってそうだ。教科書に誰かの顔が載っているのを見てうらやむことが多々あった。私の顔も載ってほしい、功績を綴ってほしい。と、いっても今日の世の中になって教科書に載るなどほぼ不可能だがなんとかして載る方法を考えて見た。これを読んで教科書に載りたいと感じている人は実践してほしい。
教科書といっても昨今様々な教科書がある。今回は歴史(日本史)の教科書に載る方法に限定して考えてみよう。
まず歴史の教科書に現在載っている人物を見てみよう。古くは卑弥呼から始まり聖徳太子、源頼朝、織田信長、徳川吉宗、西郷隆盛、伊藤博文、吉田茂などと順番に列挙してみたがほとんど、いや全員が政治に関係した人物である。であれば大々的に名を載せる方法は政治に関係を持たなければならないということになる。といってもほぼ無理なことは明々白々である。私たちが総理大臣になれるはずがない。他の方法を探してみよう。
では文化面ではどうなのだろうか。文学作品を例に挙げてみよう。文学作品の著者でおそらく最初に目にするのは紫式部だろう。そこから時代が飛んで江戸時代に井原西鶴や俳句ではあるが松尾芭蕉らが登場してくる。さらには明治になると文学作品の著者が多く登場する。森鴎外や夏目漱石、芥川龍之介、三島由紀夫、司馬遼太郎と挙げてみたが枚挙に暇がない。では有名な文学作品を書き上げれば名を残すのではないかと考える。しかしここでもまた問題が発生してくる。どのような問題かというと文学作品の母数が多すぎるという問題である。昔と比べ人口が多いに増加している現在では誰でも文学作品と繋がることができる。だれでも文学を綴ることが可能となる。その多くの作品のなかで世の中を席巻するような作品を作れるだろうか。そもそも例に挙げた彼らは当時かなりの知識を要し深く世事に通じていた。であれば我々も世事に深く通じ作品を作らなければならない。他の文化面でもそうである。茶道では当時の世事と深い結びつきがあった。となるとやはり今の私たちでは不可能なのか…….
しかし今の私たちでも教科書に載るかもしれない方法がある。それは一大センセーショナルな事件を起こすことである。具体例は安重根による伊藤博文暗殺事件である。彼は一般人という立場にいながらたった1つの事件を起こした事により見事教科書に載ることが出来たのだ。これは活気的な事である。世の中を乱した事件を私たちが起こせば、教科書にのる可能性があるのだ。そんな気があればの事なのだが。
ここまでつらつらと書いてきたのだがやはり今の私たちでは教科書にのるなどやはり不可能に近い事なのだ。ああ私も生まれるのが早かったなら載ることが出来ていたのだろうか。
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