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10.仏教の姿

キリスト教について

キリスト教の本質は、「人が人を裁いてはいけないという隣人愛のもとに、様々な試練つまり原因を思いつかないのに起こる予期せぬ出来事による苦しみは何故生じるのかと神と対話するという祈りを通して、これらの試練を受け入れて不合理なことを神との関係によってあくまで合理的に解釈して、神への信仰を深めて自らも救われるという過程」だと私は解釈しています。

ここで「隣人」とは身近で親しい人のことではなく、罪深い人やよそ者や嫌な奴を念頭に置いたもので、隣人愛とはそのような人々を非難して裁くのではなく、愛によって受け入れるということのようです。

遠藤周作の考えるキリスト教は少し違って、「人間のやる所業には絶対に正しいと言えることはない。逆にどんな悪行にも救いの種がひそんでいる。何ごとも善と悪とが背中あわせになっていて、それを刀で割ったように分けてはならぬという仏教の善悪不二の考えが深く影響している。泣く者、歎く者は、いつも神を求め、神はそのためにおられる。そして泣く者、歎く者のそばで慈しみに満ちた目でじっと見ておられる。」という風に考えているようです。この考えは仏教特に浄土教とほぼ同一のものと思えます。

仏教の基本


仏教学者の中村元氏は、そもそも歴史に実在した人物としての釈迦は「仏教というものを説かなかった」と主張されてます。釈迦が説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道だったのですが後世の経典作者は仏教という特殊な教えをつくってしまったというのです。中村氏は、仏典(お経)が説く「仏教の教義」の多くは後世の創作であると指摘されました。

仏典にある釈迦が臨終に際しての最後の言葉は、「修行僧たちよ。お前たちに告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」となっています。つまり仏教の本質は「無常をさとることと、修行に精励すること」、この二つに尽きるということです。

仏教の世界観はバラモン教の世界観である輪廻と解脱に基づいています。人の一生は苦であり、永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになるのです。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的です。仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り無限に存在する前世と生前の業(ごう)および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされています。生前に善い行いをすれば良き境遇に生まれ変わり、悪行を積めば苦しい境遇に生まれ変わると考えるのです。

仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論を基本的考え方に据えています。一切の現象は原因によって現れ、「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などは否定されています。だから個々の生に対しては、業(ごう)の積み重ねによる果報である次の生へと輪廻転生し、世間の生き方を脱して涅槃に至らない(悟りを開かない)限り、あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けるということです。

輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学での普遍的な要素ですが、生まれ変わりや解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴となっています。生きることは苦であり、人の世は苦に満ち溢れている。そして、あらゆる物事は原因と結果に基づいているので、人々の苦にも原因が存在する。したがって苦の原因を取り除けば、人は苦から抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論です。仏教においては、輪廻の主体となるバラモン教の永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、すべての事象は時々刻々因果律によって変化して永遠不滅の実体はないという点で仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっています。

仏教では生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(悟りを開く)ことが可能である(四諦)とします。そしてそれを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行の実践(八正道)を奨励しています。このように仏教では、救いは超越的存在(例えば神)の力によるものではなく、個々人の実践によるものと説きます。すなわち、釈迦の実体験を最大の根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それを実践することを勧めているのです。

このように仏教では修行により、時々刻々変化する事象に囚われることなく(執着することなく)、真理を正しく理解することによって悟りを開き、苦から脱することを目指します。そのために様々な修行法あるいは宗派が生まれてきたのです。

これから後は私の個人的な考えを書きます。

上記のような仏教の考えは、バラモン教のアートマンを否定する事が前提であり、我々日本人の考えに馴染むものとは思えません。

 そこで三島由紀夫の「豊饒の海」を考えてみましょう。これは唯識論を交えた輪廻転生の物語です。

主人公本多繁邦の親友である松枝清顕が右翼的青年やタイの王女などに輪廻転生してゆく物語です。物語の最後に、本多は綾倉聡子が清顕との禁断の恋の末に出家をした月修寺を訪れ、彼女に会います。そこで本多の質問に対して彼女は、清顕さんなどは知らない、そんな方は初めから居られなかったのではないですかと答えます。そこで本多はとうとう記憶もなければ何もない境地にまで自分は来てしまったと悟ったのです。

これをどう理解すればよいのでしょうか。例えば次のような解釈があります。清顕などは初めから存在していなくて、全て本多の末那識(まなしき)の中のみに存在して、上記の転生は本多の阿頼耶識(あらやしき)の妄想にしか過ぎない。つまり今までの本多の認識が幻であると最後に明かされ、結局輪廻転生は認識の過誤にすぎないということです。別の解釈もあると思いますが、私にはこの解釈が一番納得できます。上記のように仏教では解脱は神などの超越した存在の力ではなく、各人の努力によって現実世界で認識できる姿として達成することが求められます。輪廻転生のように認識や理解もできないことを前提とする考えには違和感を覚えます。古代インドのバラモンの世界では、輪廻転生は理解の対象ではなく自明のことかもしれませんが、私達日本人には自明のことでもなんでもありません。

禅宗はそれとは少し違うように思うのです。

禅宗は中国の道教の影響を深く受けています。『老子』に説かれる「道」の概念が道教思想の根本であり、道教においては不老長生を得て「道(Tao)」と合一することが究極の理想として掲げられています。道教では目に見える現象世界を超えた根源世界、天地万物が現れた神秘の世界に目を向けます。「道」は超越的で人間にはとらえがたいものですが、天地万物を生じるという偉大な働きをし、気という形で天地万物の中に普遍的に内在していると考えます。健康で長生きしたいという人々の共通の願いが、永遠の生命を得るという超現実的なところまでふくらませたものが神仙という観念であり、道教では理念的には神仙になり、無為自然な生き方をすることを最終目標としています。無為自然とは「作為のないありのまま」ということを表しています。

このような考えに影響を受けた中国の禅宗では、座禅によって無為自然の高みに到達して解脱を得るのです。日本では禅の教えも少し日本的に変化して道教の影響が薄まり、「今」という時に集中して生きる事によって解脱を得るという風になりましたが、それでも無為自然的な考えは強く残っています。しかしこれは普通の人々にとっては憧れ仰ぎ見る境地ではあっても、誰にでも到達できるものではありません。人間社会では社会を維持する為には社会や周りの自然環境に働きかけて生産することが重要です。もし大部分の人が上記のような境地に達すると、社会を維持ことが困難となります。従って禅の世界ではごく少数の人が解脱の境地に達して、その他の大多数の人々は彼等を尊敬し仰ぎ見るという社会にならざるをえなくなります。

そこで形の上では本来の仏教と随分違ったものに見える浄土教が重要になると思います。私は個人的に禅宗より浄土教に親しみを感じるので、客観的な見方ではないかもしれません。

上記のように禅では本来的に誰でもが解脱するということはできないので、また道教的な考えが必ずしも日本人の心を満たすものではないために、日本では阿弥陀仏の慈悲によって誰でもが働きながら救われるという浄土教を仏教の中心に置くという考えが生まれます。ここで重要なことは称名念仏を仏教の様々な修行の一つとみなすのではなくて、称名念仏こそが仏教の真髄だと考えることです。

「慈悲」は別の表現法では「抜苦与楽」とも言い、苦を除き楽を与えるということです。ここで重要なことは楽や苦が、私達にとって都合の良いものが楽であり、都合の悪いものが苦だということではありません。つまり私達の都合の良いことを実現するのが慈悲ではなく、むしろ苦をも楽に変えてしまう悟りの智慧を実現するのが慈悲なのです。阿弥陀仏から言えば、私たちに悟りを促して止まない働きが慈悲なのです(小川一乗氏)。

このように考えると阿弥陀仏に手を合わせて念仏するのは、阿弥陀仏の慈悲によって悟りに至るということでなければなりません。その時もし阿弥陀仏が仏像のように具現化したものであれば、文字通りの抜苦与楽である現世利益的な頼み込む姿になりやすいかもしれません。そこで浄土真宗の一部では仏像ではなく「帰命盡十方無碍光如来」という抽象的な軸を本尊とするようですが、それは上記のような理由かもしれません。

従って浄土教では、念仏を通して自らの煩悩から出た思いや所業について阿弥陀仏の慈悲を受けて繰り返し自らを省み、煩悩にまみれた自己に気づきながら煩悩のまま苦を楽として受け止めてゆく。このようにして信心を深めてゆき、仏の智慧に至ることを目指すのではないかと思うのです。親鸞聖人が「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と言われたと歎異抄に書かれているのはこのような気持ちで念仏を称えているという決意を示されたのではないでしょうか。そして法然上人のお歌である「月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」にも詠まれているように、阿弥陀仏の慈悲に気が付きさえすれば、称名念仏の道は誰にでも開かれているのです。

上述したように人間社会は各人が分業することに成り立っています。夫々の人は社会が必要としていることのごく一部だけを分担するに過ぎませんが、すべての人が夫々の仕事を分担することによって、各自が必要とすることの全てを社会から得ることが可能となるのです。文明が生まれて以来このようにして人間の存在が地球上で突出したものになってしまうと、人間は生存に必要以上のものまでを自然界から得ようとします。このことは往々にして他の生物にとっては受け入れがたいものになり、他の生物の生存や生き方を著しく脅かす事となるのです。しかし夫々の人はこれらの脅威に直接手を下しているとは限りません。多くの人は他の生物に穏やかに接しているのかもしれません。しかしその他の誰かが多くの人の生活を快適なものとする必要から人間以外の生物を脅かしていることもあるのです。このような事情で多くの人は特に罪の意識を感じなくて済んでいますが、各自は紛れもなく間接的に他の生物を脅かしているのです。例えば犬や猫は人間が家畜化したために、人間の保護がなければ生き延びることができなくなっています。彼らは自らの力だけで生きるための十分な食物を得ることはできません。殆どの場合人間から食物を与えられなければ生き延びることはできません。しかし多くの人が知っているように現に多数の野良猫・野良犬が居ます。彼らは十分な食物もなく冬には寒い環境の中で耐えています。これらのことに多くの人は表面的には責任はないように見えますが、自分の手元にいる飼い犬・飼い猫には深い愛情をもって可愛がっています。このことは飼い主が犬や猫の家畜化に大いに貢献していることを意味しています。だから飼育放置で困っている犬・猫にはすべての人が責任を負っているのです。温暖化の問題にしても同様です。このように社会的人間がこの世に居るということ自体が一種の罪だとも考えられます。親鸞聖人が自分は地獄に堕ちるしかない罪を背負っていると述べられたことと通じるのではないでしょうか?

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