科学(化学)の可能性 気が付けた者と気が付けなかった者は釣り合わない

残念ながら私の書いている文章を理解できない人は、私の思想を理解できないし、尊大な言い方ではあるが「人類の凄さ」も理解できないであろう。
今この記事を見ているディスプレイと、貴方が座っている椅子の違いは何だろうか?水と椅子の違いは何だろうか?薬と椅子の違いは?
結局は物質であり、言い方を変えれば何れも物質であると言える。非常に当たり前だ。これを分類していくことは、分類学な見解に過ぎず本質的ではない。
何を言いたいのかというと、例えば計算機科学を無くして認知心理学は有り得ず、数学を無くして計算機科学は有り得ないといった事柄と同義なのだ。
必ず、アナログはスペクトラムの中に存在する。アンフェタミンにも色々なアンフェタミンアナログがある様に、癌にも色々なアナログがある。各癌は”がん”のアナログであり、それは病気である。病気と健康(非病気)の間には境界線がなく、常にスペクトラムである。何らかの不具合が発火した瞬間に、悪性の要素と陽性(又は健全)な要素のサイクルに狂いが出てしまい、悪性が優位性を保ち生命体を脅かす様なものである。これは、ハードディスクの故障と同じなのだ。ハードディスクが壊れる前と壊れた後の間の時間が必ず存在し、それらの境界線は意図する必要があり、意図しなければ時間の経過と共に変化していくだけである。それはこの様に言い換えることもできる。”離散的では無い”ということだ。しかしながら、離散的では無い事柄は扱い難く判断のタイミングを間違えると望まない結果になってしまう為、意図して境界線を書き上げていく必要があるのだ。
良くも悪くも何にしても、どちらの方向性に置いても、ガウス分布が全て意味を成しているといった結論で良いだろう。
面白い事に、人には欲がある。猫に欲があるのだろうか?知る由もない。私には常に欲があり、常に今よりも良い物を…. 良い何かを得て出したいと思っている。
人類の圧倒的なエゴが今の世の中を作り上げて来たと言っても、間違いでは無いだろう。もし、人が利便性向上という欲求又は自我の最前線に居なければ、電話というものは生まれなかっただろう。その電話が無ければ、救急車を呼ぶ事もできない。この世には意味のある事柄しか存在しないとするならば、死という概念すらも意味を持つが、どういう訳か人という生き物は高水準な部分で、それを否定的に捉えることが出来る。ある意味では、リソース管理の分割なのだろう。(人間の否定性には非常に興味深い。)だから人は助かりたいという思いが生まれ、助かろうとするのだろう。ならば、電話で救急車を呼べる革命の様に、また新たな革命的な事柄を生み出すように何かを。それは否定かもしれない。
”否定”という感情が無ければ、改善という思考すらも真面に出来ないだろう。
例えば、新しい薬やワクチンには秘めた毒性があるかもしれない。それは可能性であり、つまりは逆である可能性もある。
もう少し踏み込むと、全ての人が100%安心安全に摂取できる薬物等の開発は不可能であり、それは全ての人が非常にミクロな単位でズレがあるからなのだ。
100%同じ身長の人が、存在しない様なものである。
Aさんが大丈夫だとしても、Bさんは大丈夫では無いかもしれない… 残念ながら未来を手に入れることはできない。なぜならば、始まりと終わりが有るならば、その間の期間が必ず存在するからだ。時間を飛ばすことは出来ないらしい。仮に時間を飛ばせても、時間を経過してしまう。つまり必ず”その間の時間”が存在する。これがスペクトラムである。
そうと分かれば、今すべきとことは、今持っている知識等をフル活用して物事に挑み続け、向上心を持ち突き進むだけである。これが、科学(化学)の発展… 向上心であろう。