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好きな言葉「金ピカの赤井さん」

 好きな言葉をいかにして好いているかを私自身も見つめ直しながら、長々と語っていきたい。

 今回は「金ピカの赤井さん」だ。これは江戸川乱歩の推理小説「何者」の章題の1つである。赤井さんというのも当然その登場人物だ。詳細は省くが、この章で赤井さんは金色の粉を身体中にちりばめて現れるのである。それゆえこの小説を知らない人には、この言葉は全く意味の通じるものではないだろう。しかし私がこの言葉を愛する理由はこの小説にはほとんど関係がない。むしろ読んでいない人にこそ新鮮に感じとってほしい魅力がある。

1.イメージ

 まずひとつに、この言葉をパッとひとめ見た時の印象が好きだ。金と赤がまず連想されるに違いないと私は思う。ここからは人それぞれだろうが、私にはこの赤井さんが刺繍の意匠の凝らされた赤の開襟シャツを着たような人に思えるのだ。90年ほど前に書かれたという時代背景を考えればハイカラすぎる気もするが、「赤井さん」と見ると勝手に色としての赤を関連づけてしまう。安直だが、頭にイメージの湧く表現はとても良いものに思える。

春すぎて
夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ天の香具山

のように具に情景が浮かぶような表現も良いが、もっと読み手の想像に委ねるような曖昧模糊な表現が好きなのである。例えば"愛のままにfeat.唾奇/BASI"という曲がある。この曲のサビで

夢の途中であなたに出会い愛を覚えた

という歌詞が登場する。ここでは多義的な言葉が用いられており解釈に広がりが生まれている。まずひとつに「夢」は"将来の夢"のように目標を指す意味と寝ている時に見る"夢"の意味がある。"昔からの大きな夢を叶える道程の途中"、"正午すぎに籐椅子でぼんやりとみた夢の途中"、どちらにしても違和感なく受け取れるだろう。また「愛を覚えた」も2つの意味に受け取れる。"愛を学んだ"、"愛を感じた"、これもどちらの意味でも違和感はない。こういった意味の曖昧さと夢や愛のように実体を持たない言葉が、水彩画のような淡いイメージを浮かばせるように感じる。「金ピカの赤井さん」という言葉も、赤井さんという人間の人物像も風体も、なにゆえ金ピカなのかも分からない。だがしかし、そこになんとなしに金色と赤色のエッセンスだけが浮かび、そこへへばりつけるように読み手それぞれが好き勝手に要素を盛り込む。難解な芸術を見せられてハテナを浮かべたまま頷く、そんなようなこの言葉が私には魅力的に思えるのだ。

2.「の」

 次に、私は○○の○○という表現が好きだ。もはやこれは完全に私の好みで他に理由はほとんどない。今後も好きな言葉を紹介する際に度々登場するだろう。ただ無理にでも理由をこじつけるなら、「金ピカの赤井さん」という言葉の「の」の使い方は少し違和感がある。私は現代日本語を熱心に勉強している、などということはないので高校までの国語の薄い記憶と勝手な主観で語ることにする。一見するとこの「の」は「金ピカの」という連体修飾語の一部である格助詞の「の」である。連体修飾語として用いる「の」の前には名詞が置かれるように思える。"私「の」ペン"、"お菓子「の」家"といったように。しかし「金ピカ」という語は"金ピカだ"、"金ピカな"、"金ピカである"、と表されるように形容動詞だ。そう、現在一般的に表現するなら「金ピカな赤井さん」となるのだろう。他に例を挙げるなら「不思議の国のアリス」だろうか。「不思議な国」ではなく「不思議の国」である。少し違和感を感じないだろうか。例えるなら

今年の目標は〜〜したいです!

というありがちな誤った文のような違和感である。ここまでチクチクと細かい指摘をしてきたが、実を言うと「金ピカの赤井さん」は俗っぽい誤った表現というわけではない。形容動詞とはそもそも名詞を形容詞的に表現するために生まれた品詞であるとされている。先の"不思議な"という語が形容動詞とされているが"不思議"という名詞を取り出せる、ということからも分かるだろう。さらにいえば形容動詞という品詞の存在を否定する考え方も在り、今も議論は続いているらしい。つまり「金ピカの赤井さん」に用いられている「の」は間違った表現ではなく、少し古いような表記揺れなのである。その表記揺れによる違和感が、この言葉をうち棄て素通りすることを惜しませる、レトロな深みを出していると考える。

3.語の軽さ

 また、赤井さんが金色の粉をその身に纏って現れたとしても我々は「金ピカの赤井さん」とは表現しないだろう。この奇を衒ったような物言いが最大の特長と思う。この小説を読んでいなければ、人間が金ピカであるという状況はまず想像がつかないだろう。この第一印象の意味不明さがポップな魅力を生んでいる。他にもこの言葉にはなんともいえない愛嬌があるのだ。「赤井さん」、一見するとごく普通に「赤井」という人物を指しているだけに思えるが、それなら「赤井」でいいのだ。これは単に主人公が彼を「赤井さん」と呼ぶので口語的に表現したまでだが、例えるなら遊戯王の主人公武藤遊戯が友人の城之内克也を「城之内くん」と呼ぶのを理由に

次回 城之内くん 死す

と表現するようなものだ。次回予告として台無しなことに変わりはないが、緊張感が弱まってより抜けた印象になった気がする。このように「赤井」では少し固い印象をうけるが、それを主人公の主観的な視点で表現することで和らげているのである。「金ピカ」も言わずもがな柔らかなイメージを与えてくれている。こういった普段使われることはないが優しく聞こえる表現が、キッチュにはなりきらずにペダンチックになることも避け、この言葉に絶妙な引力を持たせている。

あとがき

 いかがでしたか?こう書き加えるだけで上に示した文章が意味のないものだと簡単に伝えることができる、「♪」などを多用するとより効果的だろう。さておき上に述べたものが私が「金ピカの赤井さん」という言葉を好く理由である。ここまで様々に理由を語ってきたが、そのほとんどに裏付けはなく私の主観である。野菜嫌いの子供が「いかにハンバーグが野菜より美味しいか」などと語っているのと遜色はないと思ってほしい。
(江戸川乱歩[著]「何者」すごく面白かったです)

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