顕在意識を魂に合わせていく
アクセサリー作家のmaicoです。
スピリチュアルに溺れていた頃、悟りを開きたくて瞑想を毎日の日課にしてみたり、
チャネリングに憧れて一日に何回もオラクルカードを引きまくってみたり
おかげで数々の不思議な体験はしても、一番肝心の自分のことについては、
いつまでたってもなにもわからないという状態が数年続きました。
決して真実には辿り着かない。
それがまさしくスピリチュアルの目的であると今は深く理解できます。
敏感な体質であるわたしは闇のエネルギーにとって都合が良い存在だったのは間違いなく、
夜中寝ていると、ゴキゴキと頭をこじ開けるようになにかが入ってきたり、
ひどいときは常に頭の上になにかがいて、ずっと気持ち悪い状態が続いたり。
やられ放題だったわたしが、最終的に落ちるところまで落ちなかったのはなぜだったのだろうかと考えると、
おそらく小さな違和感を無視しなかったから。ただ、それだけだったのだと思います。
その違和感こそが魂からのサインでした。
ワイオを知ってから、敏感な体質は信号を受け取るという形で小さく小さく開花していくことになりました。
そうすると勝手に信号を送ってくる方々というのは、そのほとんどが闇や、休みゆくエネルギーばかりなのだとわかり、
それ以来、あれだけ自分に必要だった様々なスピリチュアルな情報発信は、見ることも聞くこともできなくなりました。
そこに関わる闇のエネルギーからの信号が飛んできてしまうからです。
ワイオでいう信号とは見えない存在の方々からのサインのことを指すのですが、
その信号はだれからのものか、どんな意味があるのかを考察していくことをサニワと呼びます。
それをするには自分が受け取ったものを一旦冷静になって見つめなくてはなりません。
ときには信号自体を疑うこともあり、それがワイオでいう信じて従うな、ということにも繋がるのだろうと感じます。
信号を受け取ってサニワをしていくのはかなり難しい。
ただ、直感とは体感的にどういうものなのかがわかるようになってきたので書いてみます。
今日ここに書く直感とは魂の声、本当の自分の声のこととします。
そもそも直感って「これだ!!」というような強い感覚、なにかが突然降りてくるような、そんなイメージがあると思うのですが、
これは祖の時代の直感のイメージであって、本来の魂の声とは違う、その場合の方が多いということがよくわかりました。
「絶対これだ!!間違いない!」と力強く感じるときほど顕在意識や、あるいは先祖(守護霊神)、祖のエネルギーの方々からの信号なのではと思います。
皇と祖の違いをわかりやすくいうと、祖は力が強く直線的で、反対に皇は柔らかく曲線的。
闇や、祖のエネルギーはいまでこそ徐々に弱くはなっているけれど、それでもやっぱり強いです。
なぜなら、祖の神々や先祖の方々はこの夜の時代(祖)を明るく照らさなくていけないお役目があったから、
わたしたちに降り注いでくる光の輝きは、ある意味非常に強力だっただろうし、
人を惹きつける闇の方々の力というものも相当なものだったと想像できるのです。
一方でわたしが思う直感とは「違ったら恥ずかしいけど、こうじゃないかな…?」そんなささやきのような感じ。
あの時感じた違和感もとても弱々しかった。
あまりにも弱々しくて、信じるのが怖いほど。
でも直感を信じるにはその怖さを乗り越える必要があり、
その唯一の方法が行動にうつすということなのだと思うのです。
少なくともわたしはそうでした。
失敗したらしきりなおして、柔軟に道を変えてまた行動に移していく。
その繰り返し。
ちょうど調べたいことがあって、上志満先生のブログを読んでいたら面白い記事を見つけました。
2015年2月ワイオ時事評論No.165
「人生観のズレ」より
例えて言えば、人生は、二頭立ての馬車の状態で走っているので、二頭の人生の目的、価値観がずれているのである。
一頭は馬としても、一緒に走っているのは鹿(しか)なのである。
したがって、人生は常に馬鹿な状態で走っており、一方は、高い価値観で走ろうとし、他方は、現実に合わせて走ろうとする。
つまり馬が合わない状態で走らざるを得ない時代であった。
皇の時代は、しだいに馬鹿な状態が解消されていくのであるが、
基本的に、顕在意識が馬鹿な状態を早く知って、自分の意識、思考を魂に合わせていかなければならない。
馬鹿って頭が悪いという意味ではないんですね。笑
鹿を馬にしていくには、地道に、かつ柔軟に、縄の如く進んでいくだけなんだと改めて感じます。
果たしてわたしの鹿は馬になってくれているだろうか。
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