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ようやくいい人が得する時代が来る

アクセサリー作家のmaicoです。

画像は先日出品したアンダラクリスタル、エレクトリックブルーのワイヤージュエリーです。

これまでの時代は祖の時代といい、誰もが上を目指して頑張ってきた時代でした。

だから、当たり前のようにこれまでの時代に活躍する人といえば、がむしゃらに頑張れる人だったり、

トップに立てるような人というのは、能力の高い人や口がうまく、おべっかを使えるような要領の良い人が多かった。

明治以降、西洋文化が入り、とくに戦後の日本は完全な資本主義、能力主義社会となった。

思春期という多感な時期に大人からは学歴のみで個人を判断され、
同世代、とくに異性からは見た目や能力で判断され、クラスで人気のあるグループ以外は見向きもされなかった。

おそらく30代以降の人たちはほとんどがこの時期に深い傷を負ってるはず。

若い頃、どこで聞いたかは忘れたけれど、ショックを受けた言葉があった。


いい人はどうでもいい人


なんてひどい表現だろう?と思ったけれど、あながち間違いでもないなと思えて、
いい人になっちゃダメなのか?とすごく悩んだこともあった。

いろんな解釈のできる言葉だけれども、まさにこれまでの時代に出てくる言葉だったんだなと今は思う。

いい人かどうかよりも、能力の高さに人は魅力を感じ、それが正しいことであるかのような雰囲気が社会全体には広がっていたし、

人生を楽しめる人はなんだかんだ、やっぱり能力の高い人だったから。

しかし、そんな能力主義的思想も皇の時代の訪れによって、ようやく終わりを迎えようとしているように思う。


それをうまく表現してくれているのが、オタキング、レコーディングダイエットで有名な岡田斗司夫さん。

わたしは岡田斗司夫さんの動画を見るのが好きなんですが、

彼がまさに長らく続いてきたこの能力主義社会が終わりを迎えていることを十数年前から伝えてて。

ホワイト社会になるという表現をされています。


近年、欧米企業の本社では、能力の高い人材よりも良い人格の人を採用する傾向にあるのだそう。

ズバ抜けた才能のある人や能力の高い人は勝手に競走を始めるため、不穏な空気になるどころか、かえって会社全体の仕事の効率が悪くなるとかなんとか。

そのため、優秀で能力の高い人材こそ、外注や派遣で雇い、反対に誠実でいい人を会社に置くことにしようという流れになっているそうです。

日本の企業がまだ優秀な人材を雇う傾向が根強いのは、アメリカに比べるとそもそもいい人が多いからだとは思います。


これは切り抜き動画なので、最近の時事ネタ(ガーシー)と絡めた刺激的なタイトルになってはいますが、内容はとてもまともでシンプルです。


この動画の中の岡田斗司夫さんが言うのは、これからはいい人戦略で行こう!ということなのですが、

決して本当にいい人になるのではなく、いい人を演じろ!ということなんですよね。

なぜいい人になろう!と言わず、戦略という言葉を使うのだろう?と考えていてなんとなく感じたのは、

おそらく岡田さんの考えるいい人とは、人のために自分を犠牲にするとか、お節介とかも含まれているんだと思います。

だから、本当にいい人になっちゃうと痛い目を見るからだめだよと。

ワイオ的に言えば、それらのいい人というのは祖の時代の概念であり、人の自立を妨げるもの。

つまり皇の時代では罪となる行為。

岡田さん自身はそれを踏まえて話をされているわけでは無いんですが、なんとなく感じとるものがあられるんだろうなーと思いました。

いい人が得するというより、
いい人が、ありのままいい人らしくいられる。

それが皇の時代なのでしょうか。

岡田斗司夫さんはいつも、サラッととんでもないことを言うので、他の動画も本当に面白いです。例えば、

笑いとは攻撃である、とか。

すべてが一概には言えないかと思うけれど、人が人を笑うのは、攻撃性を含んでいると。

だから、地獄には大笑いが鳴り響いているけれど、天国に大笑いはないそうです。

天国は大笑いではなく微笑みのみがあると言われていました。
ええー?と思いますが、よく考えると妙に納得。

なぜなら、祖の時代にお笑いや娯楽が発展していったのは、苦しみや痛みを経験しなければならないルールがあったからこそ。

苦しみや悲しみを一時でも忘れるために祖の時代には娯楽や笑いが必要だったんですね。

反対に皇の時代には大笑いはなくなり、だれもが微笑む程度になると言われているのです。

すごいぞ、岡田斗司夫。

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