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自我

もうダメかもしれない。

2回目の自殺未遂(と言ってもいいのか分からんけど)を犯して、なんかまた鬱々とした日々を送っている。ようやく歩けたかと思ったらまた歩けなくなって、また歩き出しての繰り返し。嫌になる。いろんな人に気を遣って、気を使いすぎて叱られて、少し気を抜いてみたら誰かを傷つけていて、嫌になる。自分のような人間の分の酸素などいらないような気がする。いつもいつも「女」とか「大学生」とか「趣味」で自分をコーティングしていて謎の案じている自覚があってそして今こうして文字を打っていてなお苦しくてもその仮面を脱げないようなそんな気がする。嗚呼嫌い。全てが苦しい、情報が棘のよう、人と話すのが楽しいのに終わった瞬間また現実に引き戻されるあの瞬間が嫌。慣れてきたような気がするけれど慣れない気もする。

人は私を純粋だとか格が高いとか言う。それは嬉しいし素直に有難いと思う。思うけど、もう片方の自分は常に自分の苦しみについて訴えていて鬱陶しい。こないだフォロワーから苦しい自分を押し殺すなとスペースで言われた。その通りだと思う。それが出来たらこんなに苦しんでないんだよなと思う。でもできるようになりたいと思う。こういう時、上林暁を考える。あなたの文章を読んでいると私と同じようなことを考えるなと思うときが時折あるのだけど、あなたはそれでもユーモアのある優しい文章を常に書いている。あなたの文章に、毒はないような気がする。上林さん、どうしたらそんなふうに生きられるのですか。そう問いかけたくて仕方ないけど、きっとあの人は答えてくれないだろうなと思う。


昔父親にこんな話をした時、大人なら誰だって立場があってその立場を演じるんだ、とウイスキーを片手に言われた。なるほど、とその時は思ったけど、私はそんな社会で生きられるか本気で疑う。理想の私はいくらでもいて、その自分になれるように励むのが私の人生の道なのだけど、それがうまくいかないと生きている意味を問いたくなる。

他人が憎いとか、そんなこと以上に私は自分のことばかり考えている。本当に気持ち悪いな、なんか自分大好きみたいで嫌。

そろそろ遺書を書くべきかもしれない。
でもなんか死を狙ってるみたいで嫌だな。辞めよ。
死ぬなら、安吾の桜の森みたいに孤独の中で静かに散って消えたい。
私の存在なんて忘れて欲しい。でもこの地球はそれを許してくれないから、死にたくても消えたくても意味がない。不条理な世界だ。

そしてこんな文章を書く自分も多分ものすごく愚弄したくなるんだと思う、そうしたら多分精神的に安定したといえるんだろうな、多分ね。

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