パトリシオ・グスマン『チリの闘い』/パブロ・ラライン『NO』/岡本喜八『ダイナマイトどんどん』

 1960年代のインドネシアで起きた「共産主義者(華僑を含む)狩り」はちょうど朝鮮戦争〜ベトナム戦争で揉めていた時期の冷戦時代の米中関係の皺寄せでもあったんだな……というのが見直すと印象に残る、ユダヤ系アメリカ人のジョシュア・オッペンハイマー監督『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』に続いて世界の独裁者シリーズで横浜シネマリンでパトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』三部作を観た。ピノチェト将軍はアジェンデ政権が倒れる前から軍司令官として入閣していたのか……。

 1970年代に労働者の支持を得て選挙で勝ったはずのアジェンデ政権が進めようとする改革政策への、旧体制側(街の人々のあいだでは「ミイラ」と呼ばれる)による合法・非合法問わずの猛烈な嫌がらせが続いている軍事クーデター寸前の街頭インタビューの緊張感が生々しいドキュメンタリー映画『チリの闘い』は第一部から第三部まで続けて観ると計4時間38分かかるのだが、その約三割以上は右派勢力によって骨抜きにされた議会への当てつけのようにして政治的立場を異にする人々が口々に意見をぶつける討論や演説の場面なので字幕の文字量を追うのが大変。野党本部に近づいただけで狙撃される人民連合のデモ隊。自然発生する暴力的なファシズム運動。国の産業の命運を左右するのは経済統制で利用されやすい運輸・交通業(のストライキ闘争)、チリの場合はカトリック系保守派の富裕層に支援されて銅山の労働組合が起こした右派主導の反政府スト。

 摘んでも摘んでも次々続々とクーデターの芽が涌いてくる非常事態体制下にトラック業界のストライキで物流が途絶えた後の、D.I.Yの構えで調達した輸送手段で買い付けてきて原価で売る食料の自主配給を組織する場面が熱い(首都の約30万世帯の生活をその「人民商店」の配給でまかなったという)。そして軍隊が官邸に乗り込んでくる様子を捉えてしまった記録映像での向かい合ったカメラと銃口の距離がゼロになって崩れ落ちる映画史上稀に見ぬ危機的なショット。007シリーズのあの構図の「実際に路上であった」バージョン。

 最大野党のキリスト教民主党は日本でいうと公明党みたいなものか……。「歴史は我らのもの」と謳って未来に託す感じの1973年9月11日に爆撃されたアジェンデ大統領の言葉で締める第2部。あと治安を乱すために画策された時給が出る雇われデモって本当にあったんだ、等々資金援助したCIAの陰謀が渦巻いていた。

 その約15年後のピノチェト政権時代に起きたチリ人の抵抗を描いた『NO』については去年日記に書いていたので話は一年前に巻き戻る。合わせて観ると激動の政治状況に翻弄される数十年間のスケールで「チリ人のよろこび」が浮き彫りになると思う。 

 2015年2月25日にキネカ大森で観た、1988年のチリの独裁政権末期に実際にあった国民投票が行われるまでの、15分間の放映枠で「YES派」と「NO派」に分かれて争うTVキャンペーンの演出を任される映像ディレクターが主人公のパブロ・ラライン監督『NO』は、「チリ人の喜び」を明るい歌と踊りに乗せて「未来志向」のイメージで訴えようとするNO派に対して不安定な生活続きで萎縮した「恐怖心」につけ込んだ安直なパクり・ヤジ・煽り(なおかつ不都合な事実は即検閲、ついでに敵対陣営の自宅への嫌がらせもあり)といったオヤジ的発想以外は経済成長(=貧困に逆戻りしたいのかという脅し)しか主張が無かった現政権側=ダサい者が敗北するという日本の選挙では見たことないカタルシスがポイントだった。共産主義者=テロリストという冷戦時代のプロパガンダ図式は『アクト・オブ・キリング』でもおなじみ。というか虐殺の検証を歌と踊りを使って引き出そうとする『アクト・オブ・キリング』とも対照的。

 しかしそこで「NO」派が勝った結果の映画では描かれていない顛末が、監督のインタビューで語られている。

『ピノチェトは独裁の下で一つの経済モデル、社会モデルを押しつけました。資本主義です。そしてこの資本主義が持ち込んだのがマーケティングや広告でした。そしてまさにこの道具によってピノチェトは打ち負かされたのです。NO の運動は、マーケティングにつながる論理を利用して民主主義を回復しました。その意味でNO の運動はそれ以後のチリで起きたことを暗示しています。(……)今日、チリでは、8 人から10人の人間が富を握っています。国家の役割は非常に小さく、企業は巨大です。私の国は小さな「モール」になってしまいました。そしてこの「モール」への最初の動きこそは、広告とマーケティングによって民主主義を回復したまさにそのやり方にあったのです。』(『NO』公式サイトより)


 付け加えると、事実を元にしたこの映画では主演のガルシア・ベルナルをバストショットで捉えた顔と1980年代に撮影・放送されていた記録映像が滑らかに交差するようになる虚構の語りのスタイルが特徴的。「どうせ深夜放送だから誰も見ていない」「国民が皆出来レースだと思っていて若者が無関心なのでこの低投票率では負けるわけがない」という前提に居直って公共放送の「映像」を舐め腐っているYES派と、「コーラの広告みたいだ」「気が済むまでバカをやったらいい」って難癖をつけてくるこれでは今までピノチェト将軍に殺された者達の屈辱が報われないと怒る生真面目なメガネ左翼に厳しいダメ出しをされながらもあくまでも「暗いのはダメだ」と柔軟におしゃれな路線で闘おうとするでもやるんだよ精神の奮闘が「ノーモア行方不明!」っていうキャッチコピーに込められている。

 「チリ人の9.11」こと1973年のクーデターはクラブミュージック界で実力派ミニマルテクノDJ/プロデューサーとして知られるリカルド・ヴィラロボスが幼少期にドイツに移住せざるをえなくなった背景にもなっている。

『1973年、ぼくが3歳の頃、チリで軍事クーデタがあって(民主的なアジェンデ政権を、ピノチェト将軍がクーデタで転覆した)、ぼくは母の親族のいるドイツへと亡命した。独裁と、右翼による軍事クーデタで、母国を離れることを余儀なくされたんだ。拷問されたり、死に追いやられた父の友人もいた。全てがおぞましいものだったんだよ。

 でもぼくはドイツへ亡命できてラッキーだった。だってもしそのままチリにいたら、ぼくはアカデミックな家庭で育ったから、もっと普通の、ある種の技術者みたいな職業に従事していただろうから。南米では専門的な技術者になるか、ただふつうに働く労働者になるかという選択肢以外に、職業として選びうるものなんてないんだよ。ヨーロッパならその可能性がもっとたくさんあるだろう?例えば音楽とかアートとか、そんなことで生計を立てる、幅広い人生の選択肢が。でも南米にそんなものはないんだ。』(ricardo villalobosインタビュー http://taicoclub.com/13/ricardo-villalobos/ )

 ではここで一旦Ricardo Villalobosの「Enfants(chants)」と大友良英が率いるGround Zeroがビクトル・ハラの曲をカバーしたライブ音源を続けて聴いてください。


 ついでに言うとホセ・ドノソもチリ人だったー!、昨年のTwitter文学賞で海外編3位にランクインしていましたが、豊崎由美・大森望・佐々木敦氏らがコメントするその結果発表会で「スーパーラテンアメリカ文学翻訳者」という称号で呼ばれていた寺尾隆吉が訳した『別荘』はまだ読んでないけどコルタサルの短編集『遊戯の終わり』『悪魔の涎/追い求める男』(岩波文庫)は本屋で何となく手に取ってからずっと積んである。

 初恋の記憶から街中での偶然の出会い、三角関係の執着まで恋愛と死(屍体そして彫像、地下鉄のガラスの映像等)が結びつくモチーフが多いアルゼンチン出身の詩人・小説家フリオ・コルタサルの短編は政治活動に転換した70年代より50〜60年代の方が精彩が段違い………けど水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズの『八面体』に収録されている「手掛かりを辿ると」の呪われた詩人の栄光と悲惨の話のエグさはボラーニョっぽい。

『だが、その後のラテンアメリカの政治情勢は、有無を言わさずコルタサルを政治の道に引きずり込んでいった。一九七〇年代にチリで人民連合が勝利してサルバドール・アジェンデが大統領に就任すると、即座に支持を表明してチリ訪問を実現し、いわゆる「パデージャ事件」に際しては、バルガス・ジョサ、カルロス・フエンテス、フアン・ゴイティソロらとともに署名した抗議声明がフィデル・カストロの逆鱗に触れたとみるや、慌てて追従の詩まで捧げてキューバ政府のご機嫌取りに精を出した。皮肉なことに、コルタサルの政治参加をさらに加速させたのは、作家としての収入と名声の確立だった。ガリマール社の編集者として、出発業界の裏表を知り尽くしていたカルヴェリスは、自らコルタサルのエージェント役を引き受けて原稿料や印税収入が十分確保できるよう尽力し、通訳稼業の負担を彼から取り除いていった。するとコルタサルは、執筆活動の時間を増やすどころか、ますます政治にのめり込み、文学賞の賞金や作品の原稿料まで左翼団体に寄付するようになった。さらに、各地への講演活動などを通じて、作家としての影響力を次第に自覚していった彼は、カストロ政権の擁護や左翼活動の支援に自分の名声を積極的に利用し始めた。おそらく、コルタサルが自分のなかの「文学青年」を切り捨てる決定的契機となったのは、一九七三年、アウグスト・ピノチェト将軍がクーデターを起こしてアジェンデ政権を崩壊に追いやった、チリの「9・11」だった。南米にせっかく芽生えたばかりの社会主義国家を潰されたコルタサルは、事態への憂慮にいてもたってもいられず、抗議声明への署名、インタビュー、各国外交官との交渉など、闇雲にあちこちを駆けずり回ることになった。そして、一九七〇年代半ば以降のコルタサルは、バルガス・ジョサの指摘するとおり、キューバ擁護、ニカラグアのサンディニスタ運動への支援、軍事独裁政権の糾弾、そして亡命者への手助けに忙殺され、時間をかけてじっくり創作に臨むことは少なくなった。』(コルタサル『八面体』の寺尾隆吉による訳者あとがき)

 よって寺尾隆吉訳のホセ・ドノソが2014年度のtwitter文学賞海外部門第3位にランクインした勢いに乗じて集英社文庫の『石蹴り遊び』が再発されてほしい!(※2016年に水声社から復刊されました)

 さらに言い忘れてたけど集英社文庫の『ラテンアメリカ五人集』でメキシコのパチェーコやフエンテスの翻訳をやっていた安藤哲行の『現代ラテンアメリカ文学併走』という本をたまたま見つけたのだが、「死後の名声ーーボラーニョ現象」なるエッセイが載っていた。スーザン・ソンタグの褒め言葉やインフラレアリスム時代の詩「ロマンチックな犬たち」や自作解説的なインタビューの短い翻訳でコンパクトにここ数年続々と作品集の翻訳出版が進んでいるチリ人の小説家ロベルト・ボラーニョの特性が紹介されている。

『なぜ、ボラーニョとは違う小説世界を構築している新しい世代が「野生のボラーニョ」という本を出すほど彼を慕ったのか。それは、「ぼくは自分がブームの継承者だとはまったく思わない。たとえ飢え死にしかかってもブームの施しをこれっぽちも受けるつもりはない。コルタサルやビオイ=カサレスのようにたびたび読み返す作家はいるけど。ブームの遺産は怖い。(……)「ガルシア=マルケスは、たくさんの大統領や大司教と知り合ったことで満足している人」(ボラーニョのために)という言葉からも推察できるように、新たな小説世界をめざしていること、体制然とした作家たちに対する舌鋒鋭い批判、たとえばイサベル=アジェンデをへぼ作家と言って物議を醸す、多分にアヴァンギャルド的なその姿勢にあるように思われる。』(安藤哲行「現代ラテンアメリカ文学併走」より)

 続いてTSUTAYAで借りてきた岡本喜八『ダイナマイトどんどん』とポール・トーマス・アンダーソン『ザ・マスター』の長らく見逃し続けていて燻っていただけの脈絡の無い二本立て。のはずだったが観終わってみるとどちらも舞台設定が第二次世界大戦の終戦から5年後の1950年で米軍と日本兵とアル中が出てきた……。

 米軍がベトナム戦争から撤退したのをきっかけにした沖縄返還から6年後の1978年に公開されたけど時代設定はちょうど対馬海峡の向こう側で朝鮮戦争が勃発する頃の1950年になっているカルト的ヤクザ映画『ダイナマイトどんどん』の方は敗戦後の進駐軍に相対する北九州弁の菅原文太と岸田森が、とりわけ「敵対するヤクザ2組の喧嘩の決着を野球で果たそうとする」という奇抜な設定を力業で押し通す躍動する台詞のリズム感が一々面白すぎる。

『わしゃあ相撲の方がよか言うたばってん、ハシデンの奴が、野球と民主主義はアメリカが本場じゃ言うて生意気抜かす/ちょっと親分、ほいじゃあ、北九州の一家ばじぇんぶ敵に回すっちゅうのは、喧嘩じゃなかとですか!?』

『今まさに、民主主義国家として再起せんとするわが祖国のささやかな礎として、われわれは仁義に則り、伝統ある任侠道の作法を遵守し、この野球トーナメント大会を華々しく挙行する所存であります』

『大方野球ば当てこんできた食い詰めもんでっしょう、飯ば食わしてくれるだけでよかっちゅうて/フン!役にも立たん糞袋にタダ飯食わすボケがおるとか、どげん奴かい?/それがよりによって監督やってもよかちゅうて』

 江戸幕府VS明治維新の攻防の中間地帯である東海道に位置する「城」がアメリカ南部からやってきた音楽の威力によって脱領域化される『ジャズ大名』の時もこれドゥルージアン(のどっちかというとバディウによる批判以前の世代的)映画?って思われてならなかったけど、1978年の岡本喜八監督『ダイナマイトどんどん』で登場人物が被っているヘルメットの文字「MP」はミル・プラトーの意味。米軍に抗争を警備(規制)されたヤクザ組織が野球チームになる、はずがさらに別の何かの非意味的な群れへと組んず解れつになる。そして喧嘩の不始末の懲罰が沖縄に飛ばされた強制労働っていうの今見ると……。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?