原作(1986年)から2014年までに積み重なった約30年分のタイムラグについて一番考えて工夫するべき点を最初から最後まで光のハレーションでボヤかしてしまっている三木考浩監督『ホットロード』があまりにダメだったので……

 つまりここで扱われている当時の喋り言葉にしてもファッションにしても性愛観にしても暴走族というカルチャーにしても、原作の紡木たくによる少女漫画で描かれた1980年代の白けたアパシーと「反抗」の旧時代感(なぜなら劇中で当時の中高生達が直面する母子家庭の軋轢、複雑な家庭事情という「普通の家族の幸せ」が揺らぎ始めたとば口から来るものだから)と、2014年のとっくに「普通の小さな幸せ」が変わり果てた日本に生きるティーンエイジャーとの「距離感」をどう設定するか、そのズレを劇中でどう調停するかがこの映画化における最大の挑戦であり難題だったはずなのに、冒頭から海辺に満ちた光のハレーションとフィルターが全開でのっぺりと有耶無耶にボヤかしている(劇中の台詞、「お母さんになりたいという小さな幸せ」へと収束する偽装された普遍性?、30年前だったら「当たり前」に小さかったかもしれないけど古谷実の『サルチネス』の最終巻を読んだ直後だったので特に似て非なるラストだと思った)ので、端的に成功していない。

 結論から言えば、無軌道な少年少女がケンカと暴走行為でしか大人社会への反発や不満を発散できなかった「ヒップホップが普及する以前」の遊ぶといえばセックス暴力orダイな「不良」像のアナクロニズムに完全に無自覚なのが、この映画化がズレっぱなしな一因なのだと思われる。まさに、エンディングテーマで使われていた尾崎豊の「oh my little girl」への鈍感なノスタルジーで認識が止まっている。

 その曲が収録されている尾崎豊のファーストアルバム『17歳の地図』は、奇しくも同時期に、映画『フラッシュダンス』や『ワイルド・スタイル』が公開されて新しいカルチャーの衝撃によって若者を熱狂させていた、日本におけるヒップホップの黎明期である1983年にリリースされていたのだ……。(ラップ/ダンスバトル以前にも不良が競争できる音楽は色々あったのか?というのは横に逸れるので割愛する)

 しかも、現代へと蘇らせるために「新しく」語り直せていない、というだけならまだしも、原作にあった通りの物語の読み込みに関しても問題がある。

 というのもここでは、改造バイクによる暴走族というカルチャーに具体的に寄り添って彼ら彼女らにとっての「ヤンチャの終わり」がいかに訪れたのかを描く気が微塵もなくて(それは少なくとも少女視点から見た淡い記憶として原作には微かにあったはずである)、バイクを手放して「大人」になるまでに至る葛藤も苦悩も決断も画面中では過剰なまでに「原作に忠実」に漂白されてボヤけており、主人公が出会って魅かれていく伝説のヘッド「春山」に起きた不幸な出来事のショックによって能年が吐いたのを見せてから美しげなホワイトアウトで誤魔化した後で全部ナレーションで心境の変化を説明してしまうという暴挙に至っては、絶句である。ということはすなわち原作で学校や家庭の外にあるロマンチックな憧憬の対象になった(そして少女漫画というジャンルの枠内で理想化された)「暴走族」へのリスペクトは無くてもいいけど少なくともなぜ彼ら彼女らがそれに熱中して社会問題になるまで流行したのかについての理解の姿勢が1ミリも無い(=理解不能で迷惑な子供の一時の誤ちとして描かれる)ということでもある。

 ここにある、大人が寝静まった後の「夜の文化」への堂々たる無理解の姿勢は、ものすごく強引につなげると、風営法規制推進派のイデオロギー?「大衆欺瞞としての啓蒙」(アドルノ&ホルクハイマー)!!というのは穿ちすぎにしても、根深いものがある。

 しかし映画としてはザ・駄作だけど能年玲奈のイメージ映像としては、2013年の連続テレビ小説『あまちゃん』で鍛えられた「豹変してキレる、暴れる」といった演技力のボキャブラリーが発揮されていて、スタイリッシュな決め画が満載なのが救いだが、そこだけ編集したダイジェスト版でも同じだろう。

 最後に表示された「この作品は最大の安全を考慮して撮影されました」という言い訳がすべてを象徴していて、予算が多いほどどうやってもこの物語に関して考えざるをえないことを「最大の安全を考慮して」考えることができないっていうことなのか?松竹のバカー!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?