Moe and ghosts『幽霊たち』ディスクレビュー

 「シミュレーション 心霊現象」と歌っていた相対性理論『ハイファイ新書』から3年後、ついに『ラップ現象』(幽霊EXPO)をリリックに込めてラップするユニットの登場である。とはいえ、ファルセットを多用して目まぐるしく変幻自在な発声の仕方は、トーンが抑え気味のやくしまるえつことはむしろそれぞれ真逆のベクトルといってよく、モノローグ的なのに鬼気迫った言葉の運動性の回転が『まだ人間だったあの日/間延びした夕日を背に放課後の校庭の樹の樅の木の下じっとあいつは待つ(??)爆弾の爆発みたく小さな心臓が(??)して聞いたことがないような大きな大きな音を立てて/跳ねた誰か止めて/ダメダメな現代人メンタル限界値簡単に遙か超えて』(LADY OF THE DEAD)というように聴き取り不可能なレベルで、勉強部屋でストレス解消のために気分転換に配信用アカウントにログインして顔の見えないワールドワイドウェブ世界に向かって必死に喋りかけているうちに真剣に言いたいことがあり過ぎたために過剰に熱中し過ぎてあの世との交信が始まってしまい(黒沢清の『回路』?)、いつのまにか人間だったことを忘れていくような奇妙な幽体離脱感を醸し出すフロウをまとってだ。独自にポルターガイストと『みすぼらしく幽体離脱 』(語るまでもない)を駆使という特殊なスキルでフロアを震え上がらせるのが彼女らが標榜するゴーストコースト・ヒップホップの条件だとすれば、しかしそこで死んでいるのは誰か? 霊は誰のものか? 『日本語ラップは死んだ、俺が殺した。』(ECD)?  ところで00年代以降のある時期から、諸ジャンルで同時多発的に現れている「ゴースト問題」と呼べる遍在化が現代日本の表現空間にあるわけだが、そこで少しでも思考を前進させるためには、このように、名前や顔を失った幽霊たちの来歴を問い訪ねてみる必要がある。

 例えば青山真治監督の北九州サーガにおいては、主人公健次の地元の先輩「安男」が繰り返し物語に憑りついている。綾辻行人原作の『アナザー』では、急逝したクラスメイトを卒業まで未だ生きていることにしたせいで誰が生きて・死んでいるのか区別が付かない、という死者=いないものが教室に増えていく呪われた「現象」に襲われる。そこで特徴的なのは、伝統的な祖先の霊や戦争・災厄で死んだ霊といった国家や共同体によって意味づけられる「大きな物語」ならぬ大きな幽霊=死者というよりは、それは常に、同じ土地で生まれ育った限りなく小さな関係性の中での「幼なじみの友達の幽霊」なのである。
 さておき、よくよく音楽自体を聴いてみれば、サイモン&ガーファンクル版で知られるイギリスの妖しい民謡「スカボロー・フェア」のカバーもあるとはいえ、ホラーやゴスの文脈には回収できずにそこから思いっきり外れていく「怖さ」、つまり乾いた哄笑が散乱しながら旋回するライミングが弾けつつ『歯の浮くような言い回しは、ギロチン/使い古されたコピーもギロチン/散々ヤリ捨てられた女みたいな安直な愛の歌もみんなギロチン/でもYO!チェケラッチョだけじゃ寝ちゃうよ』(メルヘラ)みたいにクールに切り込む日常への怒り(違和感)をべースにして、無機質に鋭敏な超高速で意味を断片化/プリズム化するスタイルは、それを支えるユージーン・カイムによるアナログとデジタルの淡いを優雅に行き来している本格派のトラックも相俟って、あらゆる固定観念を振り切って、日本語による正統派SFラップの誕生、と呼んでみたくなる。これまで朗読(ストーリーテリング)に傾いたほんの思いつき的な派生物としてしか存在していなかったその可能性を、とりわけ「南極点」では得も言われぬ寂寥感を湛えて達成している。

初出:『アラザル VOL.8』 2012年11月発行。

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