ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して

 アルノー・デプレシャン監督の『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』のあらすじをざっと要約すると、ベニチオ・デル・トロが演じるドイツ軍と戦っていた大戦中に頭蓋骨に怪我を負った陸軍帰りのネイティヴ・アメリカンの男が故郷の牧場で静かに暮らしていたのだが、頭痛や視覚異常などの症状が再発したために病院に連れられてきたけどただの原因不明の精神分裂病だとしか診断のしようがない、と追い返されかけた寸前に先住民の実地調査の経験のあるフランス人(実は生き延びたユダヤ人)の小男の人類学者兼精神分析家(マチュー・アマリック)が待ったをかけてカウンセリングが始まる。

 それは見た目だけで等し並に患者を酋長呼ばわりする差別的な一般アメリカ人が聴き取ることができなかった「1人の平凡なインディアン」の物語をアウトプットする作業であり、頭蓋骨の外傷よりも過去の女たちとの関係を抑圧しているのが原因だとして看護婦に文句が言えないほど寡黙で育ちの良いインディアンの半生が掘り返されていく。そして保護者的な気の強い姉や近所の幼馴染みだった年上の少女や妻の浮気疑惑や生き別れた娘の記憶の断片が繋ぎ合わされていくのだが、ウェス・アンダーソンとかクリント・イーストウッドとかのアメリカ映画を地味な薄味でシミュレーションしたような不思議な仕上がりだった。その付かず離れずな素っ気ない語り口は先日友人に薦められて読んだ岸政彦の『断片的なものの社会学』で、道端に無数にある小石のひとつでしかないようなものとして「分析も解釈もできない、この世界のいたるところに転がっている無意味な断片」を拾い集める社会学者の姿とオーバーラップする。

『生活史のインタビューでいつも感銘を受けるのは、目の前にいるほかでもない「このひと」のなかを、自分のものとは違う長い時間が流れてきた、という事実である。とくに「香港」のときには、ほんとうにつくづく、人というものに流れる時間について、そしてその時間の一秒一秒を「感じ続けること」について、考えさせられた。私たちは香港の刑務所で過ごした十年というものを、想像することはできるが、それと同じ時間の長さをそれとして実際に感じてみることはできない。目の前で訥々と、淡々と語る男性の話を聞きながら、私はその十年という時間の長さになんとかして少しでも「近づく」ためにはどうすればいいのかを考えていた。

 だがその十年は、当たり前の話を書いているようだが、よく考えれば私のなかにも流れていた。その男性がその十年を過ごしているころ、私にもまた同じ十年という時間が流れていた。この、ほんとうに当たり前のことに、インタビューがおわってこのことを何度も考えているうちに、ふと気付いたのである。

 もちろん私たちはその十年という時間をまったく「共有」していないし、そのことで何かの感動があったわけでもない。そもそも私は、そんな当たり前のことを誰にも、語り手本人にも伝えていない。

 しかし私は、彼の十年は私の十年でもあった、というただそれだけのことが、私と彼のあいだに、何かの「会話」を、言葉にも感情にもよらない無音の対話を成立させているような気がするのだ。

(……)だが、時間が流れることは、苦痛であるだけではない。そうした、「ほかならぬこの『私』にだけ時間が流れること」という「構造」を、私たちは一切の感動も感情も抜きで、お互いに共有することができる。私たちはこのようにして、私たちのなかでそれぞれが孤独であること、そしてそこにそれぞれの時間が流れていること、そしてその時間こそが私たちなのであるということを、静かに分かち合うことができる。』(ユッカに流れる時間)

『あるいは彼は、その一瞬のあいだで、一九四五年の南洋の小さな島と、二〇一三年の大学のキャンパスとを往復したのだろう。その時間と空間の距離を飛び越える数十秒のあいだ、沈黙が彼を支配していたのだ。

 だが、そうした強烈な物語と、私たちがふだん語ることとのあいだに、それほど大きな差があるわけではない。

 さらに、自己をつくりあげ、自己の基盤となる物語は、たったひとつではない。そもそも自己というものはさまざまな物語の寄せ集めである。世界には、軽いものや重いもの、単純なものや複雑なものまで、たくさんの物語があり、私たちはそれらを組み合わせて「ひとつの」自己というものをつくりあげている。

 さらにいえば、私たちは、物語を集めて自己をつくっているだけではない。私たちは、物語を集めて、世界そのものを理解している。ある行為や場面が、楽しい飲み会なのか、悪質なセクハラなのかを、私たちはそのつど定義している。さまざまな物語や「話法」を寄せ集めて「ひとつの」世界をつくりだし、解釈しているのだ。

 そうやって私たちは、日常的に、さまざまな物語を集めて生きているのだが、いつもそれがうまくいくとは限らない。物語は生きている。それは私たちの手をすりぬけ、私たちを裏切り、私たちを乗っ取り、私たちを望まない方向につくりかえる。それは生きているのだ。

(……)物語は、「絶対に外せない眼鏡」のようなもので、私たちはそうした物語から自由になり、自己や世界とそのままの姿で向き合うことはできない。しかし、それらが中断され、引き裂かれ、矛盾をきたすときに、物語の外側にある「なにか」が、かすかにこちらを覗き込んでいるのかもしれない。』(物語の外から、「断片的なものの社会学」より)

 そのジミーがうなされる夢の内容に分け入っていく回想場面が交差してくる分析治療の過程に標準を合わせているので、ソファーや椅子に座った2人の会話が漂っていく時間(1日1時間分のセッションで区切られた想起の切れ目が物語の転換点になる)が大半を占める映画である。舞台は基本的にカンザス州のトピカにある戦傷者病院の敷地から動かない。

 実際に治療を担当したジョルジュ・ドゥヴルーのノンフィクション『夢の分析ーある平原インディアンの精神治療記録』を原作にしてデプレシャンが脚色した実話だという。

 あらすじを忘れるほど観直してなかったアルノー・デプレシャン監督の『キングス&クイーン』で3人出てくる夫のうち2人目の恋人の役のマチュー・アマリック(クローネンバーグの『コズモポリス』にも大富豪を狙うパイ投げ活動家で出てきた)がよくフレンチヒップホップを聴きながら葉っぱを吸う無頼派のヴィオラ奏者を熱演しているのだが、奇行が目立ちすぎて周りに嫌われた結果家族か知人の誰かに通報されて精神病院に強制収容させられてしまう。

 3回目の再婚を前に新たに画廊を開業しようと意気込みを語る主人公・ノラのインタビュー風のショットから始まるこの映画では他にもカメラ目線で登場人物が言いたいことを主張する演出が多いのだが、30代子持ち経営者のノラが父が倒れたと聞いて看病のために実家に帰ってきたのに「エゴイストな娘に育ってしまった。お前が死ねばよかったのに!」と罵詈雑言を残して看取られていく作家の父の遺言(を脳内再現映像にしたもの)が酷すぎて苦笑い……。

 そして死人に口なしとばかりにちゃっかり原稿を削除して編集者に渡す主人公の図太さがいかにそれぞれ事情を抱えた死者達や狂人達や生き残った恋人に愛されていたか、を過去と現在を往還して揺れ動く手持ちカメラが追いかけて細かなジャンプカットで切り刻んでいくとスラップスティックなエピソードが唐突に散発する詰め込み型の群像劇、そしてまさかの逆転劇になる2部構成の2時間半。

『イスマエルの腕の中でよく聞いた詩を覚えてる/水は のどの渇きが 陸は 越えてきた海が 恍惚は 苦痛が 平和は 戦いの物語が 教えてくれる 愛とはその記念碑だ もはや渇きはない……』

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