【劇評】リクウズルーム『見えないスンマ』+『三人正常ちょっとだけ』

 2016年の5日5日に下北沢B-1で観たリクウズルーム『見えないスンマ』。人間に寄生する「言語=物語」から「お金の流れ」へと扱うテーマの重心を大胆に移動させた会計演劇第2弾。しかし、助成金申請の書類について「うまくストーリーをつくれ」という台詞のように引き継いでいる部分もある。

 とある架空の劇団員達の飲み会の会計の時に幾ら借りたか覚えている、覚えていないの貸し借りをめぐるイザコザを導入にして、赤字決算続きで解散間際の劇団のゴタゴタや確定申告の不正と年度末決算の領収書のゴタゴタが降りかかってくる。

 女優・蜂折ルカが主宰する劇団員と日頃から興じている、その場に居なかった者が演技だと気づかないほど巧妙に取り繕ったフリースタイルのエチュードと台本のある本番とその練習中のガチリアルな本音の三層を行き来する戯曲(をさらに外から演じ分ける)という例によって込み入った仕組みなのだが、一見驚くほど実験性が払拭された伊丹十三の『マルサの女』みたいなコテコテの群像劇コメディとして税務署員や会計士との闘いが展開するのでこのまま表面上はベタに押し切るのかと思いきや劇中で「腹式呼吸」と「複式簿記」がまさかの共鳴を起こす、簿記会計用語が乱舞する鈴木清順的な台詞回しの夢幻世界に突入して公共助成金を何に使ったのかの謎に迷い込む、「税金は麻薬みてえなもんだ」。

 切羽詰まった諸々の諸事情を元にして、丁寧な経済性で演じ分けられつつ単語レベルで毒と捻りの効いたギャグが配置されてゆくのが冷徹な批判的意志を感じた。赤字から黒字への鮮やかなオチは落語的だなと思って質問してみたらやっぱり作・演出の佐々木透は上方落語を聴いているそうである。

 無法な演者達のせいで日々発狂しかけている全演劇制作者必見!だった。

 さらにそこから3か月ほど遡って、TPAMが何なのかわかってないまま長者町アートプラネットを探し回って2月10日に観たけどまだ書いてなかったリクウズルームの『3人正常ちょっとだけ』。60分ほどの中編だけどメタ構造が複雑化していく進行の途中で上方落語的なくすぐり要素が斜めに切り込んでくるのは作風が一貫している。

 「アマルガム手帖」に続いてのタカハシカナコとレベッカと榊菜津美が開演前からそのまま壁に字幕が流れるステージに立っていて、「本番」に向けた俳優3人が日常と地続きの自然さで喋り始めるのだが、独善的な「正義」が忍び寄ってきて会話が澱んでくると本番と練習、内に閉じているか外に開かれているか「演劇人としての分別」の基準がそれぞれ個々に食い違っているので喧嘩が勃発。コンビニの場面に変わってご祝儀袋を買おうとしたら態度の悪い店員に邪魔されて海外旅行のために貯めていた1万円を「寄付」する羽目になってアジア諸国との外交問題に飛躍する。

 以下、カンボジアでダンスを教えるSEI君からのビデオレターが始まって横から入ってきたジャパンマネーに感謝するカンボジアの若者の挨拶が翻訳されないまま流れたり台湾人の新鋭多言語メディアアーティストが出てきてビデオチャットで台湾でも地震が起きてマンションが倒れた話題などを会話したり、

 ベトナム/カンボジア/タイの地図上での位置関係が舞台上での3人がダンス的動きで表す図形に置き換わる、というようにその場から映像メディアを通してつながる時事性の強い「国際」情勢を角度を変えて実況生中継するようにしてパフォーマンスが脱線していく。

 しかし難を言うとリクウズルームに隙があるとしたら、佐々木透の戯曲での言葉の造形のセンスは独特に突出したものがあるのに、劇中で使われる音楽の選曲が微妙というか、ベタにカラオケ等で誰でも知っているような外した歌謡曲を流すことによってそこまで築いてきたフィクションの毒が中和されて無力な悪ふざけに変わってしまう恐れがある。要するに劇場空間での音に関する無頓着さが逆効果なので残念だと思う。

 どこかで過去に吉田アミさんも小劇場演劇での音楽の使い方に疑問を呈していた記憶がある。

 それはともかく「見えないスンマ」の時に劇場の物販の闇市で入手した佐々木透『ノマ』『下生しさらせ右に左に弥勒で上に』の戯曲の字面のアバンギャルド度がヤバ過ぎではないか。

 その前の2016年3月に書いた「異化」と「アイロニー」のややこしい効力の違いをキーワードにして3年分の現代演劇について詰め込んだ二万四千字はこちらです。  http://reqoo-zoo-room.jp/?page_id=817

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