2010年代の自主映画作家は粗悪ビーツ feat.DEKISHI「ROLEX 入手 方法」に嫉妬を覚えるべきである。

2015年4月某日


 実際はどういう人達なのかはまったく知らないのだが(というか調べようにもネットの海が広すぎて出てこない)、遅ればせながらハマっている曲。この沈滞した重苦しさをより人工的に追い詰めていくような不穏な不協和シンセ+ドラムマシンがズブズブと聴く者の視点を首の角度ごとよりいっそう下層へと圧迫してゆくトラップ〜ベースサウンドによって俺にとって最近一番元気が出る音楽になっている。それはなぜなのかを明らかにすべく今から漸近していきたいのだが、とにかくDEKISHI & soakubeatsはロベール・ブレッソン好き必聴。一種の犯罪劇に仮託して吐露される2010年代のうらぶれた日本語のリアル、というかこのアルバム『Never Pay 4 Music』は一曲目の「ROLEX 入手 方法」から「CLEANING」〜「mission:impossible feat.onnen」〜「ラップごっこはこれでおしまい feat.ECD」〜「負けない」〜「Dirty Mind」と怒涛の勢いでキャスティングされたベテランから中堅、「25が享年でもう死んでる」謎の新人MCが好演していて、本作のプロデューサー、トラックメイカー、レーベル主宰者である粗悪ビーツがここまで現代日本の風景に重ねて濃縮された「真っ黒な汚れ」に塗れた怒りとウィットとユーモアを効かせて翻訳してくれるまでうかつにも今まで気がつかなかった「いらいらいらぶつけるもの探して」「ふらふらふらふらふら歩く」「しらしらしらしらない街の /うらうらうらうらうら通り」(ラップごっこはこれでおしまい)を舞台にした、有象無象の匿名的な(というより世を忍んで身を隠さざるをえないような物騒な言動ばかりをリリックにする)ならず者達が吐き棄てるように高速連射する威嚇的に刺々しい言葉のエッジだけを武器にしてビートを乗りこなすさまを競うグライムの活劇性に鼓舞されて止まないというわけである。←批評っぽい言い回しを頑張ってみた。

 これは曲中でサンプリングされた銃声やカーチェイスなど事件性のある耳触りが凶悪な路上の効果音が矢継ぎ早に鳴り続けているからだけでなく、ロンドン東部(つまりウエスタンじゃなくてイースタン!)に棲息する多人種からなるギャング達の虚実入り乱れた生態が発祥(※1)だというグライムと西部劇は「撃ち合い」というぐらいしか共通点がないのだが、西部劇も19世紀までの実話をベースにしてジャンルの中で破壊的な「武勇伝」が伝説化・様式化されていったのだと思うのだが、5年ぶりぐらいにその論文の存在を思い出したけど前田英樹「活劇の面白さについて」を参照。

『汚れがついても続けるレース
黒幕はなにか見破るゲーム
カミソリのように 前を見据える
YEAHYEAHYEAHYEAH

汚れがついても続けるレース
黒幕はなにか見破るゲーム
ささやかなBars Bomb the system
YEAHYEAHYEAHYEAH 』(Dirty Mind)

 ついでにふと思いついた説をこのタイミングで書いてしまうが、昨今の若者が勝手に即席のスピードで作っては情報の海に流して話題になるネット音楽、それも言葉(ラップ)による描写と物語性のあるもの、とりわけヒップホップやグライムを中心にしたビートミュージックはかつての70~80年代のやさぐれた低予算の日本映画に近い感触がある。ラップの歌詞に写し取られた「物語」についてはリアリズムやドキュメンタリーといったややこしい概念(俳句でいう「写生」とか自然主義とか)が絡んだ論考を必要とするのでとりあえず横に置くが、s.l.a.c.kが久石譲のサントラでラップしたものをフリーダウンロードで発表していたのが兆候的かもしれないが、今年の夏に上映が始まっている三宅唱監督がOMSBを主演に据えた『THE COCKPIT』(音楽映画なのでATGやロマンポルノを彷彿とさせようとしているここでの趣旨とは微妙に違うけど、というか観たけど7月以降にユーロスペースでもう一回観てから感想を書く)にしても、互いのジャンルが接近しているような出来事もある。ちなみに些末なようだがセレブ・ラッパーとしてインターネット時代のアイコンと化しているケンドリック・ラマーの出世作『good kid,m.A.A.d city』のCDジャケットには「a short film by kendrick lamar」という副題が付いていた。

 さらにその流れでいうと色々な所で言ってるけどDEKISHIのアルバムにも参加しているカタルナイシンの名作『Exhale』もおすすめ。『最近ミックステープ文化で聴いて知った人では「D山 technobreak 4th break」に「routine work」が入ってたカタルナイシン(catarrh)がリアルに混乱/焦燥したままの文字数が圧縮されていながらスマートな疾走感のあるラップで凄く良かった。』(アラザルtwitterより引用)→http://catarrhnisin.bandcamp.com/album/exhale

『もし表象に陥りたくなければ、断片化は不可欠だ。 存在や事物をその分離可能な諸断片において見ること。それら諸断片を一つ一つ切り離すこと。それらの間に新たな依存関係を樹立するために、まずそれらを相互に独立したものとすること。』(ロベール・ブレッソン「シネマトグラフ覚書」)

 そういえば数ヶ月前の今年の正月まで遡る話だけどシネフィル界(といっても局所的な関東サウスサイド限定)での「密かに熱い」(マツコ・デラックスより)山城むつみ人気の波及に感化されて俺も2010年上梓の『ドストエフスキー』を読むぜ!!と気合いを入れた結果、結局手に取ったのは『連続するコラム』だった。

『人間がアザラシの赤ん坊の頭をハカピックで殴って殺す、そのこと自体の残酷性はいいのだ。《いい》と言うか、それは残酷な行為だからダメなことなのだと否定することはできないのだ。いや、それは《できる》けれども《やっても仕方がない》のだ。問題にし得、そして問題にすべきなのは、その残酷な行為をするのが、皮なら皮を剥いでそれを売るためにやっているということなのだ。

(……)だが、単なる生皮でしかないものを商品にしているのは何か。端的には現金だ。さしあたりそう答えておこう。カネこそが、行為そのものとしてはその残酷性を問題にしようのないアザラシ撲殺を問題のあるものにしているのだ、と。では、カネとは何なのか。

 と、そううつむきつつ考え込んでゆきづまり、ふとモニター画面に顔を上げると、「たぶん悪魔が」は、それをひたすら見つめようとしている映画のように見えて来る。(1)主人公シャルルが友人のヴァランタンに与えるためにセーヌ河畔でヘロインを調達しに行くとき、(2)精神分析治療を受けているシャルルが分析医のデスクごしに、あけっ放しの引き出しにじかに投げ込まれた紙幣を覗き込むとき、(3)その医者に治療代を支払うとき、(4)セーヌ湖畔で知合いにピストルを買って来させるとき、(5)そのピストルで自分を殺すコントラクト・キラーとしてヴァランタンを雇おうと彼の部屋を訪ねてカネを見せるとき、そして(6)アザラシのように二撃で殺されて横たわるシャルルのポケットからヴァランタンがそのカネを抜き取るときーーと映画の終盤三十分になって立て続けに我々はブレッソンの映画でおなじみのあの奇妙な物質をまのあたりにする。(1)ドストエフスキーの「罪と罰」における殺人という血腥い犯罪をカネの臭いのする犯罪に置き換えた「スリ」において、(2)質屋という貨幣に関わる職業に就く男女が主人公となる、やはりドストエフスキーの作品を原作とする「やさしい女」において、(3)トルストイ原作だが、そのタイトルどおりカネが原因となって起こる惨殺がまぎれもなくラスコーリニコフ的な「ラルジャン」においてそうであるように、この「たぶん悪魔が」においても、皺だらけで、一度、濡れた紙を干して乾かしたかのようにゴワゴワしたあの印刷物が無造作に露出したまま放置されていたり、手から手へ移動したりするのだ。思えば、ふだん、カネをやりとりするとき、我々はこの物質を見ていない。それが千円札か一万円札かは見ても、それさえ確かめてしまえば、もはやカネを凝視しはしない。「ラルジャン」のように贋金が出回っているという疑いでもなければ、しげしげとこれを眺めたりはしないのだ。いや、そんな場合でも、未知の人と話す場合にその人の顔を見るときの様にはカネを眺めないのだ。路傍の石ころだって、見ればひとつひとつ個性があり、それに気付けば眺めて見飽きないものだが、一枚一枚の紙幣の個別性、単独性を眺めようとは思わないのである。考えてみると、カネほど眺められることのないものはない、というよりも、そこに在るはずの物質があまり凝視されない限りにおいてカネはカネとして健全に流通するのかもしれない。しかし、ブレッソンの映画においてはそれが見える。で、ハッとして何を感じ考えていたか。それを敢えて言葉にすれば、ここにこうして石ころや人の顔のように存在しているこの個性的な物質がどうしてカネなんだろうという問いになる。馬鹿げた問いだが、しかし、これが馬鹿げていると思うのは、ふだんカネにあの物質を見たことがないからにすぎない。

 この問いは、たんにアザラシの生皮でしかないものが商品であるのはどうしてなのかという問いに似ている。この問いには先ほど、カネがそこに介在しているからだと答えて済ましたが、それは実は未だ答えではなくこういう問いだった。アザラシの生皮でしかないものが商品であり、ここにやはり一枚のゴワゴワとした紙として存在しているだけのものが貨幣であるのはどうしてなのか。この《どうして》の答えになるものこそが、それ自体としてはその残酷性を問題にしようのないアザラシ撲殺を問題のあるものにしているのだ。今日、カナダで人がアザラシ猟をするのは、《自然史的な必然性》のためではなく、それよりも強力な必然性のために猟をしたりしなかったりすると先に言ったが、この《自然史的な必然性よりも強力な必然性》の正体も右の《どうして》の解明によって明らかになるだろう。

 マルクスが考えようとしたのはこの《どうして》だ。しかも、彼はそこに働いているのが自然史的な必然性よりももっと強力な必然性だからこそそれを自然史的過程として考えた。それは喩えて言えば、そこで物質と物質が交換されると一方が「商品」に他方が「貨幣」になってしまうような不可視のOSがあるということだ。数万年の長い人類史において、たかだか五百年ほど前の比較的最近に自然史的な過程として形成されたOSがある、単なる労働生産物を商品とし或る商品を貨幣とするような交換プログラムが現在、地球の全表面を覆って走っているが、このソフトウェアが走るのはこの歴史的に特殊なOSにおいてにすぎないのではないかと考えたのである。このOSをそのままにしているかぎり、たとえ貨幣を廃止ないし改良しても物神すなわち悪魔はそこから居場所を移動するだけで結局は貨幣を別の形で復元するだけに終わるが、もしこのOSそのものを変更することが出来れば、そのとき初めて、商品は商品でなくなり貨幣も貨幣でなくなるだろう、マルクスはいわばそういう悪魔祓いめいた見通しでこの不可視のOSの構成を解明しようとしたのである。

 右が「資本論」という経済学批判の試みだ。マルクスは、右のOSにあたるものを、たとえば商品生産と呼んで分析しているが、商品生産と言っても特殊な生産方法のことではない。たとえば、或る生産諸関係のネットワークに組み込まれてしまえば、昔ながらの子アザラシの捕殺方法であってもそれがそのまま商品生産として現れ(アザラシの捕殺がその毛皮を売るための商品生産であればこそ毛皮に銃痕を残す銃殺よりもハカピックという専用の棍棒による撲殺がより「人道的」なものとして選択されるのだろうが)、環境保護と動物愛護を看板として掲げる非営利団体の善意から出た活動であってもそれがそのまま利権屋まがいの金集めになってしまう、そういう生産諸関係のネットワークのことだ。では、この諸関係の網(OS)はどんなものなのか。思うに、マルクスもそれを変更可能なくらい具体的に解明し得ていたわけではない。今、僕が最も知りたいのは、依然として不可視のままのこのOSのメカニズムを可視のものにしてくれる理論だ。それが理論的に解明され実践的に変更されないかぎり、神も悪魔も信じない現代にあってなお、アザラシの撲殺映像が依然として悪魔のしわざに見えたとしてもそれは不思議なことではないのだ。……(以下略)』(山城むつみ「じゃ、悪魔はいるのか?」『連続する問題』所収、より)

『生きていくには 金がかかる
手を汚しては 魚さばく
落ちない匂いが体につく
くすんだ服装 街を歩く
キラキラしてない やつらのサグ
肩をすぼめては 夜になじむ
(……)

<サビ>
盗むしかない ロロレックス
奪うしかない ロロレックス
資本家のキャッシュ ひったくったあとバッグに詰め込む ロロレックス
盗むしかない ロロレックス
奪うしかない ロロレックス
資本家のキャッシュ ひったくったあとバッグに詰め込む ロロレックス』(「ROLEX 入手 方法 feat.DEKISHI」、歌詞はここにあった。→http://soakubeats.bandcamp.com/track/rolex-feat-dekishi

 ……で、冷静になって読み返してみれば、この文章には①ブレッソンの映画②西部劇(ガンアクション)③1970~80年代の低予算日本映画(大島渚とか若松孝二とか足立正生とか長谷川和彦とか曽根中生とか)(※2)が分裂して雑居しているわけだが、無理矢理まとめるとある日突然グライムと俺の日頃のパラノイアが遭遇することによってその豊かなポテンシャルから引き出された以上3つの要素をブチ込んだようなカルチャーが、映像と音声と文字=言語が等価にデジタルデータ化されて拡散・共有されるインターネット時代に夜な夜な暗闇に集まって踊り狂うブロック・パーティから自然発生したMCイング=肉声で発された言葉、つまり詩を前面に出して生まれているとしたら最高じゃんっていうことである。

(※1)shank=刺すっていうスラングがよく出てくる。入門的ディスクガイドはこの本に載っていた→『(中略)2000年代中盤、ロンドンのとある地域は、暴力と激しい縄張り意識に生活が脅かされて危険な状態だった。グライムは、その潜在エネルギーを以て、幻滅した若者世代のアンセムとなった。例えば、Lethal Bizzleの「Pow!(Forward)」がロンドンのNothing Hill Carnivalで掛けられたときは、もう少しで暴動が起きる寸前だった。とはいうものの、グライムが言及する暴力はストリートの現実よりも、漫画っぽい場合がほとんどだ。JMEの「Baraka(Blue Portal Mortal Kombat Riddim)」や、D Double Eの「Street Fighter Riddim」が示唆するのは、グライムのプロデューサーだけではない幼少期は誰もが日課にしていただろう格闘ゲームだ。Tempa Tの非常に乱暴な「Next Hype」でさえも、文字通りの解釈を拒むほど現実からほど遠い。逆にグライムの最も誠実で印象深い産物は、暴力の代わりに感動的な若者の恋愛を取り上げている。Ruff Sqwadの「Together」や、Dizzee Rascal、Wiely、Sharkey Majorのあまり知られていない「I Luv U(Remix)」は、過ぎ去った若い頃の情事に対するほろ苦い叙事詩で、理想的でロマンチックな決まり文句をひっくり返し、現実を吹き込む。また、グライムはそのユーモアのセンスでも有名で、JMEやJammer、Boy Better Knowのメンバーたちは、その皮肉なスタイルをよく語られ、男性層を中心としたグライム・シーンをパロディした「Too many Man」のようなヒット曲を出している。』(マイクスンダ「鋭利なビートに乗せたUKからの現状報告」、『ベース・ミュージック・ディスクガイド』 http://www.amazon.co.jp/dp/4907583087 )

(※2)『スリ』 http://www.amazon.co.jp/dp/B0036SKQ02

『ゆけゆけ二度目の処女』 ヒップホップ/グライムで重要な舞台となる「団地」映画といえば、  http://www.amazon.co.jp/dp/B000VV9BO4

『新宿泥棒日記』 http://www.amazon.co.jp/dp/B005094RJG

曽根中生監督『夜をぶっとばせ』 めったに上映されないのにまさかyoutubeにあるとは→ https://www.youtube.com/watch?v=1IA3MotS2Uk

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