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やりたいこと全部やれ

行きたいんだけどやることが終わってないから行けないの、と泣きながら断ったのに結局その行きたさに負けて行った。尾瀬。

朝の光のなか、尾瀬の木々


数十分くらい歩いたところで「目の周り赤くなってるよ」と言われて、「秋花粉がつらい人はできるだけ草むらなどには入らないようにしてくださいね」とZIPでミトちゃんが言っていたのを思い出した。もう知らないわ、どうとでもなるがいい、秋花粉?どんと来いや、と、意識を自分ではなく地球に向けて、ただただ歩いた。


落語も聞きに行った。
先月観たドラマの影響ですっかり落語の虜になってしまって、初めの部分だけ暗記して落語家を真似てみたりしていたので、もうこれは実際に行かないわけにはいかねえと思ったのだ。

セックスがうまい人とすると、知らない間に脱がされていてびっくりするらしいんだけど、まさに落語家はそれだった。「最近は肌寒くなって、」など楽しくまくらを聞いていたと思っていたのに、いつの間にか話が始まっているのである。
落語家さんによってちゃんと特色があって、みんなそれぞれに個性的で何人出てきても飽きなかった。


給料日には、「バイト先へ。今月も給料をありがとうございます」と思いながら、記帳がてらATMにお金を下ろしに行った。先月はいっぱい働いたね~先月の私ありがと~と通帳を見ながら思った。
給料日後の贅沢は私の場合、揚げ餃子213円アイス宇治抹茶豆乳ラテ430円、終了である。数字がご褒美みたいなもんなんですよ本当に。この金額が口座にある、という事実だけで満足。それを見るために働いていると言ってもいいくらい。
だから、お金を使う勇気がない。誰かと出かけたとき以外は基本、お金を払うことにビビり倒している。

本当に楽しいことってしっかりお金を使わないと実現できないんだと無意識に悟ってしまってから、なんとなく願望というのが薄れてきてしまった気がする。叶わないことをずっと想っていても苦しいだけだから、そんなものはもう忘れてしまおう、と頭が勝手に判断したんだと思う。私は「忘れる」ということに結構長けている。生きやすい。

梶井基次郎の『檸檬』という小説にこんな一節がある。

がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。

梶井基次郎『檸檬』

私がやりたい本当に楽しいことってまさにこういうことなのだが、お金を使わないと旅館には泊まれない。
旅館に行きてえよー、一眼レフ持ってその清潔さを写真に収めたいよー、船に乗って海のまばゆさに目を細めて、着いた先で海鮮丼をたらふく食べたいよー、食べたいんだよー。
一日中映画館に居座って面白そうとか面白くなさそうとか一切考えずに片っ端から映画を観たいし、部屋の模様替えをして毎日うっとりしながら眠りにつきたいし、大きな大きなジグソーパズルをひーひー言いながら完成させたいし、遠くの大きな図書館に行ってひとりでゆっくり歩きたいし、美術館に行ってそのあとのグッズコーナーで気に入った絵のレプリカと額縁を買って背筋伸ばしながら帰り道につきたいし、あぁ、そのためのお金がほしい。ぜんぶ実現させられるだけの金額がある日口座に入っていてほしい。お金を使いたくないというつまらない執着は少しなくなってほしい。

でも今月は、自分なりに、やりたいことをちゃんとできたと思っている。大学生は暇だと言ったのは一体どこの誰ですか?と憤れるくらいには忙しい一か月だったので、「よく生きたな」というのが10月に対して今抱いている感想。でも嫌な忙しさじゃなくて、自分が好んで選んだ、選択的忙しさで、「良く生きたな」とも思っているのである。

こんなとき思い出すのはある友だちのことで、彼は「その人にとって良いことが起こる月と悪いことが起こる月がそれぞれ感覚でわかる」という能力を持っている。彼に見てもらっていたら確実に「10月」が私から浮かび上がってきていたと思うのだが、良いことのある月としてだったか悪いことのある月としてだったかは正直私にもちょっとよく分からないなーと思う。やりたいことができた反面、傷つくこともいっぱいあった。なんか、そんな三十一日間だった。

綺麗にまとめようとしているが全然終わってなくて、むしろこれから、なことがまだいっぱい手元に残っている。最近は怒りを抱えながら生活していてもう正直疲れたのだが、この件も、解決するのはまだ先なのです。私の人生はまだ続く。

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